※これの続きのようなそうでないような
それは刹那の出来事だった。
向かってきた仙蔵をぎりぎりまで引き付けて、その苦内が振り落とされた瞬間に刃で防ぐ。一瞬の隙を突いて、屈みこんで左腕の下の死角に入りこんだ。足場が安定しない足を引っ掛けて、仙蔵がバランスを崩して倒れたところを文次郎は縺れこむようにして押さえつけた。
そのまま刃を引き抜き、首を落とすべきだった。
躊躇うことなど許されなかった。
それでも自分は、惑った。
忍刃の柄を握った手はがたがたと震えていた。振り下ろそうとする強いる手とそうすることのできない感情が拮抗し、刃は無様な音を立てて畳を掠る。それはぴたりと細い首の真横で止まった。
今、銀色の刃は薄暗い部屋の中で異様な重みを持って鈍く輝いていた。
全身ががたがたと震えているのに、ひどく手が熱かった。耳の中で煩い雑音が引っ切り無しに聞こえていた。
「なぜ殺さない」
美しい黒髪が乱れて青い井草の上に散っていた。濃い紅を引いた唇と艶やかな着物がきついコントラストを成している。薄暗い部屋の中でも、それは写真のように鮮やかに映し出されていた。
仙蔵の問いかけに、文次郎は仙蔵を押さえつけたまま答えることが出来なかった。
急所を取られたことを知った瞬間、仙蔵はそれを覆そうとした。そして覆すことが出来ないことを悟った瞬間、そのか細い腕は一切の抵抗を止めた。
それはこの男の、潔癖にも近い高潔さだった。無様に足掻くことを良しとせず、その時が来れば命さえも捨てることが出来る。
その潔さこそが立花仙蔵を立花仙蔵たらしめるものだった。それこそが彼が強く在れる理由だった。
「殺せないなどと言ってくれるなよ」
今まさに自分が殺されようとしているにも関わらず、下から真っ直ぐに自分を見つめる眼差しは、痛々しいほどに強い。その腕はもはや抵抗などしていないというのに、それと対照的に文次郎は震える手から力を抜くことが出来なかった。
細い手首をぎりぎりと締め上げる指の力は強くなる一方だった。
「文次郎!」
叫ばれた言葉に文次郎ははっと眼差しを上げた。切れ長の瞳が強く強く細められる。
黒い宝石のような瞳が燃えるようにぎらぎらと光って、動くことが出来ない自分を睨み付けていた。
「お前は忍だろう」
「・・・そう、だ」
「ならば殺せ。私を今、ここで」
自分を追い立てるように、後ろから急かすように矢継ぎ早に声が叩きつけられる。
「私を殺せ」
「・・・出来ない」
「私を殺すんだ、文次郎」
「俺には、」
「お前が忍だというのならば、私を殺せ!」
部屋中に響き渡る怒声に、じわりと手に汗が滲んだ。体の震えはもはや目に見えるほどになっていた。
自分の内側で言葉と、感情と、体が拮抗する。本当は答えは確固たるものとなって、今にも刀を振り下ろさんとして既に自分の手を絡げているのを知っている。
それでもそれに抗うようにして、文次郎は吐き出すように叫んだ。
「俺は、お前を殺したくはない・・・!」
白くなるほどに力を込めていた指から力が抜けた。彼の左手を押さえつけていた指が外れる。それは赤い痣を残して、白い手を解放した。首の横で震えていた刀が僅かな金属音を立てて、力の抜けた掌の中をゆらりと揺れた。
「痴れ者が!!」
よく通る透き通った声が張り上げられた。それは毛が逆立つほどの殺気となって、真正面から自分にぶつかってくる。
締め上げていた力から自由になった手で、仙蔵は逆に自分の胸倉を下から掴み上げた。
「私一人殺せずにどうやって生きていく!」
「・・・!」
「お前が分からないのならば教えてやる!」
女性めいた細い指が、荒々しく、男の力で忍刀を持つ自分の手を乱暴に掴む。その手によって導かれた刀は、ぴたりと彼の白い首の横、頚動脈を切る位置で止められた。
「ここだ!!」
張り上げる声が耳に刺さる。
整った面差しは今、美しいからこそ夜叉のように恐ろしく見えた。
刃がぶつかった衝撃で、首の薄い皮膚がぷつりと音を立てて切れていた。
青白い肌にじわりと線になった鮮血が滲み出すのを、文次郎はただ息を飲んで見つめていた。
ぎらぎらと光る硬質な眼差しが真っ直ぐに自分を睨み据えている。細められた切れ長の強い眼差しから顔を背けることが出来ずに、文次郎は気圧されるままに汗ばむ手で柄を握りなおした。
この男は、正しい。
殺す。殺さなくてはならない。自分は彼を、殺さなくてはならないのだ。
任務を知られて、顔を見られて、敵方の忍者を生かしておくことは許されることではない。それは忍として生きていくのならば、決して犯してはならない罪だった。
そして何よりも、刀を引くことを躊躇う自分を仙蔵が決して許さないであろうことも知っていた。その迷いは高潔な矜持を守ろうとする彼に対する侮辱であり、冒涜であった。
唾を飲み込んだ喉がひどく渇いていた。
熱かったはずの手は氷のように冷たくなっていた。
それでも強い視線に押されるようにして、文次郎はゆっくりと刃を振り上げた。小さな部屋の中で、鈍い銀色が行燈の仄暗い光を受けてぎらりと質量を増して光る。
今まさに自分の首を掻き切ろうとする刃を視界の端で捕らえて、仙蔵はちいさく息を吐いたのが見えた。その表情は、何故だか、どこか安堵しているようにも見えた。
綺麗な瞳がゆっくりと、薄っすらと閉じられていく。強い輝きが薄い目蓋に隠されていく。今から自分が落とそうとしている真っ白な首が目に焼きつくように痛かった。
この刃はこの首を掻き切るためにある。自分の手はこの首を掻き切るためにある。
背けてしまいそうな視線を強いて当てて、文次郎は息を吐いて自分が今から刈り取る首に狙いを定めた。耳鳴りが酷い。
それを抑え込むように大きく息を吸って、文次郎は振り下ろす手に力を込めた。
もうその手を止めることは出来なかった。
閃光が暗闇の中でちかりと光る。張り詰めた空間を切り裂くような音が続く。文次郎はこれから目の前に広がる惨劇に、薄く目を細めた。
それ以外に道がないのならば殺すしかない。
忍として生きていくために殺さなくてはならない。
自分が生きるために殺すのだ。
間違ってなどいない。
間違ってなどいるはずがない。
どうか生きていて欲しいと願っていた、たった一人の人を殺すことが?
腕に衝撃が走る。
握っていた柄から震える手がずるりと外れた。
畳は血に染まらなかった。この手に血が跳ね返ることはなかった。
彼の白い首は、繋がっていた。
真っ直ぐに振り下ろした刀は、今仙蔵の顔の真横にあった。畳ごとを貫いた忍刀は、その首を落とすことなく、代わりに美しい黒髪を一房切り落としていた。
覚悟を決めたように固く閉じられていた目蓋がひくりと動いた。長い睫毛が震えて、その双眸が、ゆっくりと、何かを確認するように開かれていく。
自分の身に起こったことを飲み込もうとするように、仙蔵は幾度か瞬きを繰り返した。
その瞳は天井を見つめ、文次郎を見つめ、そして最後に自分の顔の真横に刺さる忍刀を見とめた。
白い手が恐る恐るの仕草でゆっくりと首に遣られるのを見て、文次郎は思わず大きく息を吐き出した。
吐き出した息までも震えているのが滑稽だった。
「なぜ、殺さなかった」
上擦った声が耳に届いた。静かな声ではあったけれども、少しばかり普段の平静が失われているのが分かった。なぜだ、声はもう一度呟いた。
文次郎はもう一度だけ震える息を吐き出した。仙蔵から外した視線は行き場をなくして空を泳いだ。
何故、と問われて説明できるような感情ではなかった。ただ刃を振り落とそうとした瞬間に、共に過ごしてきた六年間が甦ってきた。そうとしか言うことが出来なかった。
ずっと二人で生きてきた。どんな一日も忘れたことなどない。
押しつぶされそうな時に手を握って二人で耐えたことも、泣き顔を見ないように肩だけを貸したことも、人を殺めた日にひたすら震える体を抱きしめたことも、残された時間を刻み込むように一度だけ体を重ねた最後の日のことも。
すべてすべて、自分は覚えていた。
他の何を犠牲にしてもいい。他の何を失ってもいい。それでもどうしてもこの目の前の男だけは殺すことが出来なかった。卒業して連絡を一切絶ってからもずっと想ってきたこの男だけは、どうか無事に生きていて欲しいと祈るように想っていたこの男だけは。
文次郎、とぽつりと名前を呼ばれて、文次郎はゆっくりと顔を上げた。
「ここで私を殺せなかったことが、いつかお前の命取りになる」
まるで独りごつように、自分の下で仙蔵はぽつりと呟いた。その瞳は伏せられていて、長い睫毛が影になって彼の表情を隠している。だから自分の名を呼ぶ声が僅かに震えていたような気がしたのは、自惚れだったのかもしれない。
「お前はいつか、死ぬぞ」
文次郎は目線を伏せて、ぎり、と歯を噛み締めた。
そうかもしれない。彼の言う通りなのかもしれない。自分はいつかこうして、命を落とすかもしれない。たった一人、生きていて欲しいと願う人を殺せなかった甘さによって。
その言葉に答えることはしなかった。代わりに切り落とした長い髪の一房を忍装束の中に納めて、文次郎はゆっくりと立ち上がった。
正しくなどない。煮え切りもしない。許されることでもない。それでも手放せない感情がある。
それだけが変えることも救うことも出来ない事実だった。
胸の中に納めた髪を服の上からそっと撫ぜて、文次郎は何かを振り切るように踵を返した。
After the rain
12/21/2009
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