※卒業後にフリーの忍者になった二人の話








文次郎に命ぜられたのは、さる大名の姫君の暗殺だった。

齢は十五、長く伸ばされた黒髪と容姿の美しさでその名を轟かす人であった。この戦も彼女を巡る勢力争いとして始まったらしい。この戦の原因である彼女を討ち取ることが、すべての要と思われた。
「小娘一人に兵も時間も犠牲にしすぎたのでな」
なんら詳しい説明をすることもなく、自分を雇った主はぱしりと豪奢な扇子を手の上で閉じた。
「受けてくれるな」
それがどんなに無慈悲な命令であったとしても、自分の主の命令に逆らう術など自分のような雇われの忍は持たない。任務の拒否はそのまま忍としての死を表していた。
「・・・御意」
だからたった一行で下された命令に、自分は膝をついて忠誠を誓う。
自分が生きていくために、誰かを殺して、自分の人の心を殺して。



警備は思った以上に手薄だった。
門の前に立っていた二人の用心棒を黙らせるのに労は無かった。後ろから口を押さえて、音もなく首を掻き切る。宵闇の中で頚動脈から溢れた赤黒い血が宙に舞い、自分の刀を、手を、服を汚した。
どさりと倒れた二人を尻目に、文次郎は血に濡れた忍刀を虚空に振った。自分の指の先すらも見えない闇の中で赤い血がぱたたと小さな音を立てて庭石に飛ぶ音だけが聞こえた。
呑み込まれそうなほどに重く黒い漆黒の闇に紛れて、文次郎は屋敷の中に忍び込んだ。背中を壁にぴたりとつけて、おもむろに口元の頭巾を引き上げたとき、初めてその布が血に湿っていることに気がついた。
夜の闇の中で、ひとつ、ひとつと命が消えていく。
積み重なる死体の横で自分の目だけがぎらぎらと光っている図が脳裏を掠めて、文次郎は眉を顰めた。

依頼を受けたときから、言い表せぬほど不穏な予感がしていた。
なぜこんな気分になるのかは分からない。自分が今から殺すのが何も知らぬ姫君だからだろうか。齢十五にして命を終えることを宿命付けられた人だからだろうか。理由が分からないまま、文次郎は歩を進めることしか出来ない。
城のずっと奥、一番奥深い部屋の中にその人はいた。辿り着いたその部屋の中には薄暗い行燈がともっていて、長い着物の影を映し出していた。
すう、と静かにゆっくりと襖を開ける。開いたところから、腰よりも長く長く伸ばされた黒髪が、豪奢な色をした鮮やかな打掛が、そして脇息に寄り掛かってぼんやりと窓の外を眺めている女の姿が目に映った。
彼女は不躾な侵入者である自分のほうを振り向くことをしなかった。襖を開く音も、足音も聞こえているであろうに、その細い体は身動ぎもしない。ただひたすらに、その顔は月も出ていない闇夜に向けられていた。それでもその後姿だけで、彼女の美しさは手に取るように分かった。
「一色氏の姫君とお見受けする」
自分の言葉に、彼女はゆっくりと脇息から細い腕を降ろした。目に痛いほどに真っ白な手をすうと胸に遣ったのが、肩越しに見えた。
彼女の仕草からは動揺も錯乱も、感情のある行為がまるで見出せない。彼女のそれはまるで、不躾な侵入者にも、自分の命が今奪われんとしていることにも何の興味もないような、そんな仕草だった。
不審に思いながらも、文次郎はまた一歩、畳の部屋を土足で進んだ。
「我が主の命により、貴殿の命を頂戴に参った」
一方的に掛けられる言葉に、やはり彼女は何も言わなかった。
ただ僅かに華奢な肩が揺れて、濡れ羽色の長い髪だけが水を含んだように艶めいて、光の波をつくるのがはっとするほど美しかった。
文次郎はすうと忍刃を抜いた。鞘と刀が触れ合う特有の音がひどく冷たく響いて、この小さな部屋に張り詰めた緊張を走らせる。ちゃき、と刀を構えて、文次郎は白い首に狙いを定めた。
「―覚悟なされよ」


振り下ろした刃が宙を舞う。白い刃が細い首に牙を剥こうとする。映像はまるでスローモーションのように目の前で再生されていた。
今から自分に返ってくる生温かい血を予想して、文次郎は目を細めた。
いつもと同じ結末を迎えるはずだった。刃が首を切り落とす。降り注ぐ真っ赤な血の雨が部屋中に飛び散り、生ぐさい鉄の匂いがびしゃりと自分に跳ね返る。掌に広がる温かな血を服で拭う。
そうしてまたひとつ、自分の中に鉛が落ちたことを知る。
いつも通り。そう、いつも通りだ。
そう思った瞬間に刃がぶつかる鈍い音が聞こえた。
続いたのは腕に走った千切れるほどの衝撃だった。
それは人の首を切り落とした音ではなかった。
何が起こったのか一瞬では信じられずに、文次郎は目を見開いた。
豪奢な内掛けの中から苦内を繰り出した、真っ白な細い腕によって、自分の刃は止められていた。

「覚悟するのはお前のほうだ、文次郎!」

その声には聞き覚えがあった。聞き覚え、ではない。自分はその声をずっと知っていた。
低いくせに滑らかな音をした声。六年間もの間ずっと傍で聞いてきた声。それはずっとずっと焦がれながらも、どうか決して戦で出会わぬようにと祈り続けてきたその人のものだった。
呆気に取られた一瞬の隙に、細い腕は自分の力を押し返して力技でそれを振り切った。
漆黒の髪が空に揺れる。艶やかな長い着物の色が薄暗い部屋に閃く。
スローモーションのような映像の中で、その人はこちらに体を向けた。
振り向いた漆黒の強い瞳と目が合う。見紛うはずもない。
それは間違いなく、


「仙蔵・・・!!」


女性めいた美しい手から容赦ない力で苦内が振り下ろされるのを、文次郎は間一髪で刃で受け止めた。ぎりぎりと掛けられる力が拮抗して、二人は真正面から向き合った。
鮮やかな紅に彩られた唇が笑みの形を象って動くのが、薄暗い部屋の中ではっきりと見えた。
「残念だったな、文次郎。お前が探すその人は、もう疾うにここにはいない」
「何故、お前が・・・!」
「愚問だな」
拮抗が崩れて、文次郎は素早く後ろに下がった。
目で捉えるよりも速く仙蔵が脚で腹部を狙っていた。ほとんど反射で腕で防ぎ、文次郎は同時に忍刀を振り下ろした。鋭い刃は軽やかな身のこなしでかわされた。
長い髪がざあっと音を立ててなびいて、仙蔵は素早く打掛を脱ぎ捨てた。
瞬間、鮮やかな着物に視界が遮られる。
はっと気がついたときには死角に入られていた。振り向くのと同時に、防御のために繰り出した忍刀を貫くほどの力で苦内が繰り出される。右目を真っ直ぐ貫こうとしたそれをすんでのところで避けると、右頬に鮮やかな痛みが走った。
強い瞳は真っ直ぐに自分を見つめていた。それは惑いのない仕草だった。
自分が一瞬でも足を鈍らせたら、彼は何の躊躇いもなく自分の心臓にその武器を突き立てるだろう。少しでも目を逸らしたら、即座にその目を潰されるだろう。その喉を貫くことを惑ったなら、瞬く間に彼は自分の首を討ち落とすだろう。
それは予感ではなく、確信だった。
苦内を避けた瞬間、振り返りざまに刃を引けば、その手を落とせていた。それでも一瞬迷って、文次郎は振り下ろそうとした刃を下げて半身を引いた。
息をつく暇もなく、真っ直ぐ伸ばされた仙蔵の苦内が肩を掠り、自分の忍装束を破いた。

「旧知の者と知れば刃を鈍らせるか」
ぎゅうと切れ長の目をきつく細めて、仙蔵は叫んだ。
「腑抜けるな!」
それは叱責に近い声だった。苛立ちを持ってたたき付けられた苦内が自分の顔の真横に刺さる。 化粧を施した美しい面差しが、真正面から自分を睨んでいた。


誰かを殺して、自分が生きる。
それが忍として教えられ続けてきたことだった。その教えを守り、数え切れないほどの人間を殺め、数多の人間の血を浴びてきた自分が、人の道などとうに踏み外した自分が、今さら惑うなどひどく滑稽だった。
もう疾うに捨てたのだ。どんな命でも背くことなく忠実に従い、任務とあらば心すらも捨てると誓った。その相手が例え、六年間を共に過ごし、苦しみの中で別れを選択しながらも、誰より誰よりも大切に想い案じてきた人間だったとしても。

もう、引くことは出来なかった。


闇の中で苦内が閃くのを、刮目した目は追っていた。すんでのところで防いだ忍刃の先は、そのまま彼の白い頬を薄く掠った。一歩踏み込んで繰り出した忍刀は苦内にぶつかり、その衝撃が鈍い痛みを手に走らせた。
がちがちと拮抗させて細かく震える刃の向こうから、仙蔵は硬質に光る目をぎゅうと細めて自分を見つめていた。乱れた漆黒の髪が白い顔にかかり、艶やかな着物に流れるのを燈籠の小さな明かりだけが映し出している。真っ白な頬からは、真っ赤な血がつうと線を引いて流れていた。壮絶ささえ感じさせる仙蔵の表情は息を呑むほどに恐ろしく、美しかった。

「殺すか、殺されるしかない」
紅を引いた唇が、口づけられるほどに近い距離でそう言った。敵である自分に語りかけるように、そして彼自身に言い聞かせるように。
「ならばこうして出会った以上、私はお前を殺す」
「・・・分かっている、」
「お前はどうだ」
「・・・っ」
「殺すと言え!!」
「仙蔵!」
「私を、殺すと!」


振り切ったのは仙蔵だった。重い着物を着ているとは思えないほど軽やかな所作で、仙蔵は数歩後ろに下がって距離を取った。ザッと足袋と畳が擦れる音がした。
美しい面差しが自分を睨み付けている。真っ直ぐにあてられる強い意志を持った視線に、もう逃げることが出来ないことを思い知らされた。

文次郎は奥歯を噛み締めた。感情を押し殺して、刀の柄を握り直す。
殺す。殺すのだ。殺さなくてはならない。この人を、六年間もずっと一緒にいた人を、誰よりも愛おしく思っているたった一人の人を。そうすることが忍である自分たちの定めだと言うのならば、抗うことがどうして出来るだろう。


仙蔵が床を蹴る。真っ直ぐに自分に向かって来る苦内の導線を見定めて、文次郎は刃を構えた。 その刃が自分に向かって振り落とされる数秒後の未来、そこに確実に出来るであろう心臓を貫く死角があった。
睨みつけるように刃の狙いを定めて、文次郎は仙蔵に向かうために床を蹴った。





数秒後の未来
12/19/2009