月のない夜(綾部と仙蔵)の続きです


作法室に行ってくる。
同室者がそう言い残して夜着のまま出て行ってから、もう数刻のときが経っていた。彼が出て行ったときには大量にあった帳簿も、もうほとんど片がついてしまった。
月のない新月の夜だった。
学園の夜はいつものように静まり返っている。ただ、ほーほーと遠くで鳴く梟の物悲しい声だけが、僅かに響いていた。
いくらなんでも遅すぎる。
そう思いながらことりと筆を机に置いた拍子に、ゆらりと蝋燭の炎が揺れた。
ふと、今日の昼間仙蔵に話した自分自身の言葉が蘇る。
五年生の一人が任務に失敗したのだと。
彼は深手を負って命からがら、追っ手を撒いて帰ってきたのだと。
先生方が追っているにもかかわらず、その追っ手は未だ見つかっていないのだと。
ふと心の中に生まれた一抹の不安を、文次郎はあわてて掻き消した。
仙蔵の事である。自分が心配していると知ったら鼻で笑うだろう。
杞憂に過ぎない。
今だってただ、片付けをしているだけに過ぎないはずだ。
そう完全に理解しているのにも関わらず、どこか落ち着かずに、文次郎はにらみ合っていた帳簿をぱたんと閉じた。
どうせ仕事もほとんど片付いたのだ。
ここにいたってすることはない。少しくらい様子を見に行ったっていいだろう。
そう思って立ち上がり、机の上にあった手燭を手に取ったときだった。


すうっと障子が開かれる、静かな音がした。
それは彼の開け方だった。
作法にうるさかった彼は、決して他の人間の様に大きな音を立てて障子を開ける事をしなかった。
ああ、帰って来たのだ。
ほっと安堵の息を吐いて、後ろを振り向いたとき。
息が詰まるような思いがした。

そこには、真っ赤に染まった彼がいた。

真っ白な頬には血がこびりつき、夜着はじわりと滲みだした赤が汚している。
漆黒の髪は血を含んで赤黒い色に濡れていた。
いつもの光を失った空虚な眼差しがぼんやりと空を彷徨う。心を失ったようなその目に、ぞっと冷たいものが背中を走った。
「仙蔵・・・!!」
言葉を失い、手燭を放り出すようにして駆け寄った自分に、彼はゆるゆると眼差しを持ち上げた。
虚ろな色をした瞳が自分を見つめ、そうして彼はそっと、小さな仕草で首を振った。
「案ずるな」
今にも掴み掛かりそうなほどに狼狽した自分と対照的に、彼はひどく冷静だった。いつも通りの良く通る、なんの揺らぎも、動揺もない声。だからこそそれは文次郎を混乱させた。
「何があった!」
「・・・五年生が取り逃がした追っ手の話をしたのはお前だろう」
「もしかしてお前、」
「・・・偶然鉢合わせたんだ。作法室の前で」
「お前、その怪我・・・っ!」
「怪我など、無い」
ざらりと長い髪が揺れる。生温い血の匂いが仄かに立ち上った。

「これは私が殺した者の血だ」

殺した。
仙蔵ははっきりとそう言った。
「私が、殺した」
「・・・な、」
なにを、そう言葉をかけようとした自分を遮るようにして、仙蔵は続けた。
「私が殺したんだ。この手で、今日、あの子の前で、」
揺らがなかった声が、言葉を紡ぐごとにじわりと感情の色を滲ませていく。混乱は恐怖になって、彼の肩を震わせた。
「・・・」
「人を殺したまま、あの子にいつもと同じ顔で笑いかけた、人を殺した手で、」
「仙蔵、」
「あの子の手を、取った・・・!」
赤く染まった手がぎゅうと握られる。
そうしてようやく気がついたのだ。その手を汚す血だけが濡れていないのを。それが何かで拭われたように乾いているのを。
彼は必死で隠したのだ。その手についた血を拭って、自分の中の見えた残酷さを隠して、叫びだしたいほどの恐怖をその笑顔の下に押し殺して。
大事な大事な後輩を傷つけないために。
今にも崩れてしまいそうな体に手を回して、文次郎は仙蔵の目線にあわせて屈み込んだ。
それでも彼は、決して自分と目を合わせようとはしなかった。
「・・・仙蔵、落ち着け」
「分かってる、分かってるんだ」
「喋らなくていい」
「自分のために人を殺して、何の感情も無くその屍に立つのが忍なのだとしたら、・・・文次郎」
細い手がゆるゆると持ち上げられる。その手は小刻みに震えながら、そっと自分の袖を掴んだ。細く小柄な体の彼は今、まるでこの世界に見捨てられた子供のように見えた。
「私は忍になるよ」
乾いた血で染まった手に力が込もっていく。その手は縋るようにきつくきつく夜着の袖を掴んだまま、言葉とは裏腹に、決してその手を離そうとしなかった。
「それが忍になるということなら、私はそうする」
言葉を吐き出すごとにその音には血が滲んでいく。苦しそうに息を切らした白い喉が上下する。
痛々しいほどに重いその言葉は、彼が自分自身に言い聞かせているように響いた。
ぎゅうと袖を掴む力が強くなる。彼は自分に縋るように寄りかかって、掠れた声でぽつりと呟いた。
「ただ、」
聞こえるか聞こえないか、それほどに小さな声だった。
長い髪に隠された綺麗な顔が歪んでいくのが見えた。ぎゅうと瞑られた瞳から、透明な水が溢れて落ちた。
それは自分の夜着の袖にぱたたと音を立てて落ちて、透明な染みをつくっていった。
「ただ、今だけは」

最後の声は音にはならなかった。
それでも自分には聞こえていた。言葉にならずに、彼の唇から静かに静かに消えていった音が。
痛々しいほどに震える彼を、必死にこの世界に踏みとどまろうとする彼を見ていることができずに、気がついたときにはその細い肩を抱き寄せていた。
彼はほんの僅か躊躇ったように体を固くして、細い肩が小さく震えて、
それから彼は、嗚咽を上げて泣き出した。
自分の胸に顔を埋めたまま、縋り付くように自分の夜着を握りしめたまま、それでも彼は何かを堪えるように決して顔を上げようとはしなかった。
じわりと自分の夜着に生温い血が滲んでいく。
大丈夫だと言えない自分が悔しかった。
何も間違っていないと言えない自分が悔しかった。
自分が非力な子供であることが、ひどく悔しかった。
だからせめて、その体をきつく抱き締めて、その手を離さずに、彼を汚す赤い血に自分も汚れたかった。



二年前、彼がはじめて人を殺した日のことだった。



神様のいない夜
5/6/2010