四年の夏のことだった。
まだ蝉が名残を惜しむように鳴いていた夏の終わり。
月の出ていない、真っ暗な新月の夜のことだった。
自分は夜着に着替えたあと、作法室に残って首人形の整理をしていた。
椅子に乗って高価な首人形を棚の上に載せきると、仙蔵はふう、と溜め息をついて、埃っぽくなった手をはたいた。
いつもはしないこんな用事を自分がしているのは、五年生が任務で出かけているからだった。
その五年生はもう数日戻っていない。
どうしたのかと思っていたところ、どうやら彼らのうちの一人がその任務に失敗したそうだった。
敵に見つかり、追っ手を振り切りながら命からがら帰ってきたのだと、噂を小耳に挟んだ文次郎はそう言っていた。
その話を文次郎から聞きながら、けれどもまったく気に止めていなかった。
興味もなかった。関係もないと思っていた。
だからそんな話はほとんど忘れかけていたのだ。

その日作法室を出たところで、五年生を探す追っ手に出会うまでは。



そのときのことをはっきりとは覚えていない。
ただぞっとするような殺気を背中に感じて、振り向いた先には忍刀を振りかざす男がいた。
ひゅ、と喉が鳴った。
何も考えられなかった。
ただ恐ろしかった。
必死だった。
だから反射的に懐に入れた小刀を手に取って、男に向かって、



どさりと重みのある者が倒れる音がして、はっと我に返った。
何故だか息が切れていた。震える肩で呼吸をしているのに、酸素が全く入ってこない。
ひどく喉が乾いていた。
一瞬の間の後に、ゆっくりとゆっくりと、眼差しを落とす。
底に見えたのは、血に塗れて事切れた男と、真っ赤な真っ赤な血に染まった、自らの両手だった。
月のない空の下で、小刀は赤く濁った色にぬらりと鈍く輝いていた。べっとりと絡み付いた赤い体液が、異様な色になって目に焼き付く。
その色は小刀を握る手からぬるりと垂れて、夏の色をした土をくすんだ赤で汚した。
男はぴくりとも、動かなかった。
殺したのだ。
誰が?
そんなもの、一人しかいない。

私が殺したのだ。

血に塗れた小刀を握りしめたまま、そこに倒れた男を見つめ、まばたきも忘れて立ち尽くす事しか出来なかった。
死と生の入り交じった生臭い匂いが立ち上る。
その温い臭気にぐらりと視界が歪んだ。
眩暈がする。
息を吸っているはずなのに、呼吸が出来ない。
声を上げたかった。叫びだしたかった。泣き出したいような感情が自分を飲み込みそうになったときだった。

「たちばなせんぱい?」

後ろからかけられた声に、息をのんだ。
体が竦んだのは驚いたからではない。それがあの子の、喜八郎の声であることに気がついたからだった。
ゆっくりと後ろを振り返ると、いつものように彼は首を傾いだ。
まるで自分を信頼しきった目で。
この子にはこんな場面を見せたくなかった。倒れた男の死体も、自分の手を汚す血も、自分がこの男を殺したのだという事実も。
この子にだけは、そんな自分を見せたくなかった。
喜八郎は眠たそうに目を擦りながら、不思議そうにこちらを見つめた。
「なにしてるんですか?」
何を思うよりも早く、小刀を懐に収めた。
まだ生暖かい血に濡れた手を、夜着の袖で素早く拭う。
風も光も一切を断った新月の夜は、血の絡み付いた小刀も、酷く質量のある男の死体も、自分の中に潜む夜叉も、すべてを瞬く間に闇に飲み込んだ。
不思議そうに首を傾ぐ彼にいつもと同じ微笑みをつくってみせた。
にっこりと笑いかけて、一歩、その子の方に歩み寄る。自分の身体で、後ろに倒れる男を隠すようにして。
「なんでもないよ」
彼の目線にあわせて屈み込むと、たった今起きた残酷な事実は、漆喰で塗り固められた仮面の下に瞬時に隠されていった。
「作法室の整理をしてただけだ」
「でも、どうして外に、」
「喜八郎はどうしたんだ?こんな遅くに」
有無を言わせぬ口調で彼の言葉を遮る。その子は少しだけ訝しむような表情をして、けれども素直に言葉を続けた。
「厠にいってきたんです。そしたら立花せんぱいがいらしたので」
「そうか。もう遅いから、早く長屋へ帰りなさい。部屋まで送っていってやろう」
「はあい」
何の疑いも持たずに、その子はいつものように自分の手をぎゅうと握った。
その手は手のひらにすっぽりと収まってしまうほどに幼くて小さい。
「月がないから、一人であるくのこわかったんです」
そういってその子はにこりとこちらを向いて、あまりに純粋な笑顔を浮かべた。
「せんぱいに会えて安心しました」
何も知らない無垢な手が、自分だけを頼って力を込める。
まるでそうしなければ迷子になってしまうかのように。
だから仙蔵はその手を握り返して、いつも通りの笑顔を向けた。
「大丈夫だよ」
いこうか、とその子を促して、二人は並んで歩き出した。
たった今血を拭ったばかりの、たった今人を殺めたばかりの手で、仙蔵はその小さな手をそっと握りしめた。


梟の声が、静かな学園に木霊していた。


月のない夜
05/06/2010




仙蔵ってこういう経験を一人だけはやく迎えてしまいそう・・・