行為の色が濃厚に残ったシーツの上で、彼をそっと後ろから抱きすくめた。
暗がりの中で細い首が震えて、滑らかな肩が揺れるのが見えた。甘い香りが匂い立つ漆黒の髪に顔をうずめると、骸はそっと目を閉じた。
彼の肌を、温度を、匂いを感じる。その時間は彼との不安定な関係の中で、唯一安定した、満ち足りたものだった。
「骸」
彼が自分の名前を呼んだ。その声は先ほどの甘さをなくして、いつもと同じような明瞭な音をしていた。
「ひとつ、未来のことを言い当ててみようか」
それはあまりに彼らしくない言葉だった。珍しいこともあると思った。くすくすと笑いながら、骸はその美しい髪を撫ぜた。
「さあ・・・どんなことですか?」
「もう、君はここには来ない」
きっぱりとした口調だったからこそ、彼が何を言っているのか、その言葉が何を意味するのか、分からなかった。
なんの冗談ですか、やめてください。そう言おうとして、けれども抱きすくめている彼は身動ぎもしなかった。そうしてようやく気が付いた。彼がそんな冗談を言う人ではなかったことを。
焦燥感にも似た、ちりちりと痛い何かが首を伝って上がってくる。突き付けられた言葉を呑みこむことが出来ない自分をおいて、彼は振り返ることもなく続けた。
「もう君はここには来ない。もう僕に会うこともない。今日でこの関係は終わる」
「待ってください、恭弥、」
「白昼夢みたいなものだったんだよ。そこから覚めたら、君は普通の日常に帰る」
「何を言ってるんですか!」
自分が思っていたよりも、ずっと大きな声が出た。思わずベッドに起き上がると、向こうを向いたままの彼の腕を掴んだ。
「分かりません、何を言ってるんですか、どうして・・・!」
「すぐに分かる。家に帰ったらね」
こちらを振り向こうとしない彼の表情は、暗がりの中で判然としない。それでも、その柔らかな唇は緩く弧を描いている気がした。
「どうして扉の前に書類が落ちてると思う?」
相変わらず彼の質問の意図は見えない。それでも、骸は扉を振り返った。扉の前には、確かに茶封筒と、そこから飛び出した幾枚もの書類が散乱していた。
この部屋に入ったときには、あんなものはなかったはずだった。何かが棚から落ちたような音もしなかった。
だったら、なぜ?
そこまで思考をめぐらせたとき、彼が問いかけている意図が脳裏を掠めた。
思わず後ろを振り返って、彼を見つめる。言葉が喉に詰まっていく。
「なにを、したんですか」
彼はゆっくりとこちらを振り向いて、不思議なほど真っ直ぐに自分を見つめた。
黒目がちなその瞳は、そこにある何かを掴むにはあまりに空虚だった。悲しみでも諦めでも、苦しみでも、怒りでもない。淡い瞳に揺蕩う表情は、今まで見たことのない色をしていた。
「気づかなかっただろう。君の耳は僕が塞いでいたから」
綺麗な黒髪が揺れて、きらきらと光る両目にかかる。ふっとその目を緩めて、彼はやっぱり綺麗な微笑を浮かべた。
「凪ちゃんが来たんだよ」
外では土砂降りの雨の音がしていた。
→ep.10
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