薄いカーテンの引かれた寝室は昼だというのにほの暗かった。まるで外の曇天を映したようだとディーノは思う。
扉の前にはなぜか書類が散乱していた。
彼が投げつけたのだろうか。そんなことを思いながら一枚一枚を拾い上げて、棚の上に片付ける。それからディーノは部屋の中に歩を進めた。
ベッドはぐしゃぐしゃに乱れていて、そこで何があったのか想像することは難くなかった。
彼はその上に座っていた。白いシャツを肩から羽織っただけの状態で、彼の瞳はどこか遠く、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
襟元からちらちらと覗く赤いうっ血の跡が痛々しかった。

「恭弥」
そっと声をかけると、彼は窓の外を向いたまま、うん、と答えた。まるで無防備なその声は子供のようだった。
大きく息を吸い込んで、けれども続くはずの言葉は出なかった。言いたくないと、伝えたくないと、舌が沈んでいく。
それでも、もう戻ることは出来ないところまで来たのだ。
「もう、終わりにしよう」
そっと告げた言葉に、彼は何も言わなかった。同じように窓の外に眼差しを当てたまま、ぼんやりと一度瞬く。長い睫毛がわずかに震えている気がして、けれどもそれはきっと自分の自惚れだろう。
無造作に唇を開いて、彼はこちらを振り返らずに呟いた。
「うん」

呆気ないほど、静かな別れだった。これで終わったのだ。すべてが。
そんな風には思えないほど、世界は変わらなかった。
彼がそこにいて、自分がここにいる。平凡な日常の歯車はまだ回り続けているような錯覚さえ覚える。彼と自分の間には絶対に取り戻せないものが横たわっているのに。
彼はそっと首を落として俯いた。窓から入る雨を含んだ明かりが薄暗い部屋の中とコントラストを成して、彼の横顔を浮かび上がらせていた。
随分遠くに来たのだ。どれくらいの時を一緒に過ごしたのだろう。不安定な子供だった彼はボンゴレの幹部になり、若いボスだった自分はいつしか理想を説かなくなった。
大人になったのだ。何かを得て、何かを捨てて。
けれども、自分たちの根本が変わってしまったのは、いつなのだろう。

「ごめんな」
口から零れた言葉は本心だった。
「俺はもう、お前に何一つあげられない」
身じろぎ一つしない彼の後ろから語りかける。自分の声がもう彼には届かないことを知りながら。ディーノは深く息を吸った。そうしないと、何かが溢れてきそうだった。
「でもあいつなら、骸なら、お前が望むものをくれる。あいつだけがそう出来るんだ。だから、」
「いいんだ」
ぽつりと呟かれた声が、小さな部屋の中に響いた。
はっきりとした声だった。それは何かを手放したことのある人間の、何かを諦めたことのある人間の声だった。
「あの人は、もう僕のところには帰ってこないよ」
「どうして―」
彼がゆっくりとこちらを振り返る。
黒曜石の瞳で瞬きをして、薄く光を宿した眼差しを持ち上げて。
彼は初めて、自分を見つめた。
「もうやめようって、言ったんだ」

ふわふわと揺れるような視線を自分に当てたまま、彼はふっと微笑んだ。
「本当は、どこかで少し期待してたんだ。もしかしたら、ここに残ってくれるかもしれないって。あの人はそんなことはしない、そんなことは分かってた。でももしかしたら、もしかしたら全てを捨てて、僕と一緒にいることを選んでくれるかもしれないって、思ってた」
身の程知らずだね、と言って、彼は両手を組み合わせて膝に置いた。その手が白くなるほど強く握られているのに気がついて、ディーノは思わず目を逸らした。
「でも、そんなことは起こらなかった。やっぱりそれは夢でしかなかった」
柔らかな微笑みを浮かべたまま、彼は続けた。
「五年前と、同じ結末だっただけだ」
ああ、と感嘆のような溜め息をつくと、彼はそっと目を伏せた。長い睫毛が影になって、淡い瞳の色を深くしていた。
「あの子を傷付けちゃったな」
ふふ、と乾いた笑みを漏らして、彼は笑った。この場には相応しくない綺麗な微笑は、なぜだかディーノの瞳にはひどく悲しく映った。
「でも、僕も好きだったんだよ」
白い手がシーツを撫ぜる。熱の痕の残ったシーツを惜しむように、そっと。
「だから悔しかったんだ。あいつの側にいて、何も知らずに幸せそうに笑ってるあの子が。ただ、憎かったんだ」
「恭弥、」
「僕だって、好きだったんだ、ずっと、ずっと」
彼の淡い瞳がゆっくりと溶けて、滲んでいくのが見えた。宝石のようにきらめく瞳から水が溢れていく。それは真っ白な頬を伝って、ぱたぱたと音を立ててシーツに落ちていった。
「それだけ、だったのに」
白い喉が痙攣するように震えて、彼は嗚咽を飲み込んだ。
水の音が止むことを知らずに、際限なく零れ落ちていく。
そんな顔をさせたくない。その涙を止めてやりたい。そう思うのに、自分はその手立てを知らない。
だから無力な手で、彼をそっと抱き締めた。そうすることしか出来なかった。
「ごめんね、ディーノ」
「いいよ、」
「君を裏切って、僕は」
「もう、いいんだ」
「こんなの、卑怯すぎる、こんな」
最後の声は嗚咽に消えた。
違う、恭弥。俺だって同じくらい卑怯なんだよ。
子供のように泣く彼を抱きしめながら、そう小さく呟いた。
彼のことが好きだった。どうにかして手に入れたかった。
だから彼が骸を、すべてを失って崩れ落ちたあのとき、心の中で自分は喜んでいた。彼の隣に今なら立つことが出来ると思った。
そうやって時期を見計らって、自分は彼に手を差し出した。愛していると囁いて、頬に落ちる涙を拭って、傷を優しく癒す振りをして。
その瞳が自分を見ていないことなど、ずっと知っていたのに。
きっと皆がこの子を責めるだろう。彼を悪魔だと罵って、聖人然とした顔でその罪を非難するだろう。
でも誰が彼を責めても、自分は彼の気持ちが分かる。責めることなんて出来ない。

身勝手に周りを裏切って、燃えるような欲望に捕われて、一番愛おしい人さえも苦しめて。
それでもどうにもならない想いを恋と呼ぶことを、知っているから。


ep.11