「本当に・・・すみません」
「いいんです。それより、遅刻しちゃいますよ」
ほら、とせかすと、骸は悲しげな、何かに押し潰されそうな、苦しそうな、そんな顔をして微笑んだ。
「・・・ありがとうございます」
「はい、いってらっしゃい」
いつもと同じように玄関でキスをする。そうして、凪は手を振って骸を送り出した。

静かになった部屋の中で、凪は小さく溜め息をついた。リビングの机に載せっぱなしになっていた雑誌に気がついて、本棚に仕舞う。
彼の休みが取れたら、今度こそ二人で一緒に眺めようと思った。
ふう、ともう一度だけ溜め息をついて、だだっ広いリビングのソファに腰を降ろす。
唐突に彼に仕事が入って、もともと予定のなかった自分はまるまる一日空いてしまった。
天気がいい週末をどう過ごそうかと凪は思いを巡らせた。
彼のいない部屋で一人過ごすのは淋しかったから、どこかへ行こうと思った。
そういえば見たい映画がちょうど公開されたばかりだった気がする。映画館の入っているモールにはインテリアショップも入っていたから、二人で使う新しいベッドの下見をしてこよう。その帰りに今夜の夕食の材料をマーケットで買って、彼の帰りを待とう。
予定が決まると気持ちが軽くなった。ソファから立ち上がってすぐにでも出かけようと思ったその時、携帯が鳴った。

呼び出し主は、草壁さんだった。


「休日に御呼び立てしてしまってすみません」
自分を雲雀さんの執務室に通しながら、草壁さんは大きな体躯を半分くらいに屈めて頭を下げた。眉が下がって、強持ての顔立ちが申し訳なさそうに歪む。
凪は手を振っていいんですよ、と言いながら、思わずくすりと笑みを零した。
その外見からは想像もつかないほど、彼は腰が低く、そして優しい人だ。
十年ほど前からずっと知っているけれど、彼の礼儀正しさもは変わらない。雲雀さんが腹心として重宝している理由も分かる気がした。
「雲雀がどうしても貴方に、と言ってきかなくて」
上司の代わりにそう言ってまたすまなそうな表情をすると、彼は茶封筒を差し出した。
彼の話によると、雲雀さんから唐突に電話がかかってきて、どうしても必要な書類があるから家まで届けてほしい、ただし使いは自分に頼むように、と告げられたらしい。
彼は自分を使いに頼む理由を言わなかったらしいが、もともと幹部の秘書的役割をしている自分のところには、機密性の高い書類の管理といったような仕事がよく回ってくる。
以前にも他の幹部に書類を届けたことがある。彼もそういう意図で指名したのだろう。
「本当に気にしないでください。ちょうど私も外に出るところだったんです」
幸い、草壁さんから聞いた雲雀さんの家はここからタクシーでさほど離れていなかった。
映画を見に行く時間はなくなってしまうかもしれないけれど、買い物に行くくらいの余裕はありそうだった。
よろしくお願いします、と頭を下げる彼から茶封筒を受け取って、ボンゴレの大きな屋敷を後にした。



タクシーで二十分ほど行ったところに渡された住所はあった。周辺の建物と比べても、一段とずっしりと高級感のあるコンドミニアムだった。一人で住むには部屋が余るだろうな、と考えて、彼にキャバッローネのボスというパートナーがいたことを思い出す。

『あの人じゃない、恋人』

不意にカフェでの雲雀の台詞が脳裏に蘇って、凪はなんだか落ち着かない気分になって、思わず胸に手を当てた。カフェで他の恋人の存在を知ったときには彼が軽い口調で話していたからか、こんな気持ちにはならなかった。けれども実際に彼らが住んでいる場所を訪れると、なんだか切ない気がした。
キャバッローネのボスと直接関わったことはあまりないけれど、彼の人柄の良さは、彼を慕う部下の多さからも想像に難くなかった。きっと雲雀さんのことも大切にしているのだと思う。それなのになぜ、雲雀さんは彼以外の人を求めるのだろうか。
雲雀さんの部屋は最上階にあった。書類を胸に抱えて、インターホンを押す。
けれども部屋の中からの応答はなかった。不思議に思って、間を空けてもう一度押してみる。それでも彼が出てくる様子はなかった。
不在なのだろうかと思ったけれど、インターホンが聞こえないことがあるから部屋の中まで勝手に入って構わない、と草壁さんが言っていたことを思い出した。一瞬躊躇ったのち、凪はドアノブに手をかけた。
扉は開いていた。
「雲雀さん、いらっしゃいますか」
扉をあけて呼び掛けてみても、返事はなかった。けれども扉の鍵が開いていたし、リビングからも明かりが漏れているのが見える。彼か、もしくはキャバッローネのボスが在宅していることは明らかだった。
「あの・・・お邪魔します」
なるべく大きな声で中に声をかけて、凪は後ろ手で扉を閉めた。扉の前で立ち止まったまま長い廊下を窺うと、ずっと先に大きなリビングが見える。明かりはついていたけれどもそこは静まりかえっていて、誰かがいる様子はなかった。
許可をもらっているとはいえ、勝手に他人の家に上がり込むことは気が引けた。一瞬躊躇ってから凪はゆっくりと、長い廊下を歩きはじめた。廊下の右にも左にもたくさんの扉がついていて、部屋が続いている。その一つ一つ覗きながら、凪は忍び足で進んで行った。悪いことをしているわけではないのに、足音を立てないように歩く自分が少し可笑しかった。
たくさんある部屋のほとんどは電気が落ちていて、昼だというのにほの暗い。あまりに人気のない家に、凪はこれ以上進むことを躊躇った。もしかしたら少しだけ留守にしているのかもしれない。草壁さんに連絡をして外で待ってもいいけれど、そんなことを思いながら腕時計を見たときだった。


声が聞こえた。
リビングにほど近い部屋からだった。ぴたりと閉められた扉の向こう側からはうっすらと明かりも漏れている。
途切れ途切れに聞こえてくるその声は不安定で、明瞭な音を持っていなかった。ゆるゆると下降と上昇を繰り返して揺れては、ふつりと音が消える。
少しだけ不思議に思った。
一瞬躊躇ったけれど、歩を進めた。仕事の義務感もあったし、そして好奇心がなかったと言えば嘘になる。
凪はゆっくりとドアノブに手をかけた。ああ、でも、やっぱり。その手は止めるべきだったのだ。

ゆっくり扉が開いたところから、部屋の中が見えてくる。
カーテンの引かれた薄暗い部屋。大きなベッド。床に落ちた衣服。乱れたシーツ。
凪は大きく目を見開いて、息を呑んだ。
ちらちらと覗く白い腕。絡み合う人影。シーツに散る黒髪。甘い嬌声。
それはまさしく雲雀さんのものだった。
薄暗い部屋の中でぼんやりと見える彼は、誰かの下に組み敷かれ、美しい顔に快楽の色を滲ませて、上擦った声を途切れ途切れにあげていた。それはひどくひどくなまめかしい情景だった。
身じろぐことすら出来ずに、凪はその場に立ち尽くした。驚きや緊張や焦りや罪悪感、いろいろな感情が一気にあふれて心臓を走らせる。書類を握る手に汗が滲んだ。
出て行かなくちゃ、出て行かなくちゃ、彼が気づく前に、この部屋から。
金縛りにあったように動かない脚を、引き擦るようにして一歩後ずさったときだった。
ぎらぎらと輝く黒耀石の瞳と目があった。ばちり、と音がしたような気がする。
心臓が痛いほどに跳ねた。
どくどくいう音が頭の先から爪先まで響いていて、掠れた喉から乾いた音が漏れた。
封筒を旨に抱いたまま思わず息を詰めた凪を見て、けれども彼はこの場に不似合いな微笑みを返した。

彼はこちらを向いたまま、ゆっくりと顔を起こした。
なまめかしい青白い腕が誰かの首に回される。
上体を起こそうとする彼を抱き留める姿がそこにはあった。
ほの暗い部屋の影に隠れていた、こちらに背を向けたもうひとりの姿が明らかになっていく。
腕を回された白い首。暗がりの中でぎらりと光るいくつものピアス。甘い音をした声。
濃紺の、髪の毛。
背中しか見えなくても、顔が見えなくても、間違えるはずがない。今朝も、昨日も、数年間ずっと一緒にいた人を。


そこにいたのは、ベッドの上にいたのは、雲雀さんを抱いていたのは、他の誰でもない、彼だった。


混乱していた頭が思考を止めて、真っ白に塗り潰されていく。何かが自分の中で崩れていくのが分かった。眩暈がする。濃い白に浸された脳で、凪はただひたすら、その事実を見つめていた。
雲雀さんは彼の背中に手を回して、こちらを向いたまま赤い唇を笑みの形に歪めた。
「愛してる、よ」
骸、名前を呼ばれた彼が雲雀さんと目線を合わせる。後姿しか見えなくても、その目が慈しむように雲雀さんを見つめているのが分かった。
「どうしたんですか、急に」
優しい優しい声だった。いつも自分に囁く声と同じくらい、もしかしたらそれよりももっと甘く。揺れる青い髪の奥から、美しい獣は自分に視線をあてたまま外さなかった。
「ずっと、好きだった、んだ、十五の時から、別れたあとも、ずっといままで、僕は、君を、ずっと、」
最後の声は喘ぎになって空に消えていく。彼は雲雀さんの体をそっと抱き締めた。
まるで壊れ物を扱うように、そっと。
額を寄せ合い、顔を近づけて吐息を交わし合う。二人は舌を絡めて口づけをした。
「僕が誰よりも、君を好きだよ、むくろ」
「・・・可愛いことを」
「本当だよ」
ゆるゆると甘い声をあげながら、雲雀さんはその背中に腕を回した。
「誰にも渡さない」
律動が繰り返される。
「君の心は、僕のものだ」
世界が歪んでいく。美しい瞳がぎらりと輝いて、こちらを見据える。
その瞳から目を離すことが出来なかった。
「渡さない」
真っ白な手がそっと伸ばされる。それは彼の青い髪を掻き揚げて、そのまま彼の両耳を塞いだ。
戯れだと思っている彼はくすくすと笑って、雲雀さんの額にキスを落とす。
何も気づかずに。
もはやこの部屋にいるのは、雲雀さんと、私だけだった。
「君なんかに渡さない」
小さな空間に、呟かれた言葉が響き渡った。動くことも息をすることもできない私を肩越しに見据えて、彼は淫らな色をその表情に浮かべた。
すうと切れ長の目が細められる。彼の耳を塞いだまま、愛撫を享受する赤い舌がちらりと動くのが見えた。
「書類、ありがとね。そこの棚に置いておいてくれるかな。それが終わったら、」
恍惚とした表情を滲ませたまま綺麗な笑みを作って、彼は言った。


「帰っていいよ」


ばさりと腕から書類が滑り落ちた。恐ろしいものを見た体は石のように固まって、立ち竦んでいた。
心臓がひどく熱くて、酸素が足りなくなった脳が白く眩んだ。
それでもこの場にいることは出来なかった。これ以上この情景を直視することは出来なかった。
竦んで震える脚がバランスを崩して、扉によろめいて手をつく。
気が付くと、凪はその部屋から駆け出していた。


ep.9