彼の家から出ると、数十分歩いて家まで帰った。
本来ならばタクシーをつかまえる距離だったけれど、そんな気分にはなれなかった。
今週の週末のことをどう彼女に伝えたらいいのだろうか。
きちんと伝えられる自信はなかった。


「・・・ただいま戻りました」
「お帰りなさい!」
顔を合わせたくないという思いとは裏腹に、すぐに凪の弾んだ声がキッチンから返ってきた。
目を合わせないようにしている自分を卑怯だと思いながら、リビングの椅子に腰掛けた。
「ご飯召し上がりますか?」
「あ、いいえ・・・大丈夫です。食べてきたので」
「そうなんですか?残念、せっかく美味しいリゾットができたんですけど」
それでも凪の声は明るいままだった。出しておいたらしいリゾットを冷蔵庫にしまうと、キッチンから雑誌を持ってかけてくる。自分の目の前に座ると、凪は机の上に海の写真の載った雑誌を広げて微笑んだ。
「ねえ、この海とっても綺麗でしょう。週末の旅行、迷ったけどアンティーブにしようと思うんです」
「アンティーブ・・・」
思わず凪の言葉を繰り返した。
それは以前イタリアに出張していた彼と行った場所だった。観光地ではあるが、近隣のニースの方がずっと有名なせいかそれほどメジャーな地ではない。
この一致は、偶然だろうか。心臓が嫌な音を立ててどくりと鳴った。
「雲雀さんがね、ここがいいって教えてくれたんです」
「雲雀くんと会ったんですか?」
間髪を入れずに叩き込むように問い掛けた自分に、凪は驚いたような顔をした。黒目がちで大きな瞳が瞬きながらこちらを見ている。その瞳に骸ははっと我に返った。手遅れかと思いつつも、最近彼を見なかったので日本にいるのかと思ったんです、と下手な言い訳をした。
凪はわずかに緊張していた面持ちを解くと、にこりと微笑んだ。
「暫くこっちにいらっしゃるみたいですよ。アンティーブもこの間恋人と行かれたんですって」
「恋人・・・?跳ね馬のことですか?」
「あ、」
そこまで言って、凪ははっと口を押さえた。秘密をつい口にしてしまった、そんな表情だった。いけない、どうしよう、と繰り返して、凪は懇願するように自分を見つめた。
「あ、あの、違うんです、どうしよう」
「・・・」
「このことディーノさんに言わないでくださいね」
慌ててそう付け加えて、凪はもう一度どうしよう、とひとりごちて困ったように眉を下げた。
彼女の言う「恋人」が誰を指しているのかはもはや自明だった。彼は凪に何を言ったのだろうか。まさか。
嫌な予感が背筋を走る。それでも骸は努めて自然な口調で、凪に問い掛けた。
「それは・・・どういうことですか?」
「でも・・・」
「心配しなくても、誰にも言いません。話してくれませんか」
少しばかり戸惑った様子を見せて、言わないでくださいね、ともう一度繰り返してから凪は話し出した。
「雲雀さんね、好きな人がいるんですって」
「跳ね馬以外にですか?」
凪は小さく頷いて肯定を示した。その仕草に淀みはなく、何かを隠しているような様子はない。骸は目をそっと細めて、そのまま凪の一挙一動を追いかけた。
「その人のことを好きになってしまって、ディーノさんと上手くいかないそうなんです」
「へ、え・・・」
「ずっと好きだった人と結ばれたそうなんです。もうその人のことしか考えられなくて、心を奪われてるんですって」
なんて人だろう。彼女が何かを喋っていたけれど、もうその音は聞こえなかった。
眩暈がした。
どうして彼が唐突に週末会いたいと言ったのか、どうしてその我儘を通そうとしたのか。
今、不思議だと思っていた彼の行動がすべて繋がった。
彼は今日、凪に会っていたのだ。
彼女から旅行の予定を聞き、わざわざ逢瀬に選んだ場所を教えて、その上で予定をすべて駄目にしようとしたのだ。
凪が自分に話すことを予期して、その上で恋人の、自分の存在を仄めかしたのだ。
妻の口を介して、秘密めいた愛の告白が伝わるように仕向けて。
なんて人だろう。なんて男だろう。
なんて狡猾な、こんな遣り方を。
けれどもなにより酷いのは自分だった。 秘密めいた遣り取りは、脳裏にまざまざと先ほどの彼との逢瀬を甦らせた。
言葉はあまりに自然に、滑らかに唇から零れ落ちた。
「―凪、すみません」
「え?」
「今週末、どうしても片付けなければならない用事が出来てしまったんです。残念ですが、旅行は次の機会でもいいですか」
彼女は何か言いたげな顔をして自分を見上げた。
綺麗な瞳が真っ直ぐにこちらを見つめる。その瞳が初めて曇ったのが、自分には分かった。
それでも彼女は一瞬でその表情を引っ込めると、にこりと微笑んだ。
「お仕事なら、仕方ないですね」
「・・・すみません」
「謝らないでください。お仕事なんですから」
手早く雑誌を片付けると、凪はお茶でも淹れますね、と言って立ち上がった。キッチンに立つ彼女の後姿に、今更ながらじわりと罪悪感が滲んでくる。骸は強いて柔らかい口調で、凪に詫びた。
「埋め合わせ、しますね」
「本当ですか。じゃあ次にお休みが取れたら行けるんですね」
「はい、今度こそ必ず」
後ろを向いたまま、彼女は続けた。
その表情は見えない。声はいつもと同じように、朗らかだった。
「まあ、嬉しい」
その台詞には聞き覚えがあった。つい最近、どこかで同じ台詞を聞いた。


―君に会えるんだね。
―嬉しいな。


それは彼の台詞だった。帰宅する少し前にベッドの上で聞いた言葉だった。
同じ話題で、正反対の立場の二人から同じ言葉を聞いたのだ。


この一致が偶然なのか、もはや自分には分からない。



ep.7