この先はどこまで行っても果てのない闇だろうと、予感のようにそう思った。
自分が不誠実であることなど痛いほどに分かっている。誰か一人を愛する強さがあったら、誰か一人だけにに心を捧げられたなら、どれだけ良かっただろう。
彼女のことを愛していた。一生を添い遂げたいと願い誓った。その笑顔だけで満たされていた。それでも僕は、彼のことを忘れることができない。五年前に終わらせたはずの記憶が甦り、それは彼の温度を、肌を、声を切望する。
自分を信じきっている彼女を裏切って、彼のパートナーであるあの男を裏切って、そして彼自身を裏切って。


「む、くろ、」
呼吸を乱しながら、彼は途切れ途切れに言葉を繋いだ。
セックスをしているときの彼の口調はまるで子供のようだった。子供のように甘えた声で、幼い調子で屈託なく欲望を囁く。
何の躊躇いもなく、彼は貪欲に快楽を求めては薄い唇を笑みの形に吊り上げた。
その仕草はひどくアンバランスで、不調和で、淫靡だった。
「お願いが、ある、んだ」
「・・・なんですか」
猫のように切れ長な目を細めて、彼は自分の首に腕を回した。白い額にはうっすらと汗が滲んで、漆黒の髪が張り付いている。
その前髪を払い除けると、その汗ばんだ額に口付けた。唇に甘いような辛いような味が触れた。
「今度の休み、僕と一緒にいて」
思わず律動を止めて、真正面から目を大きく見開いて彼を見つめた。
こんなことを彼が言ったのは初めてだった。気まぐれで、束縛や約束を嫌う人だったから、彼は先の予定を決めることをあまりしなかった。
ましてやこんな甘えたような我が儘など。
寂しい思いをさせているのだろうか、パーティで無神経に凪に会わせてしまったことで彼を傷つけてしまったのだろうか。そんな意識も手伝って、出来るだけのことはしてあげたいと思っていた。
けれども、今週ばかりは都合がつかないのだ。たった今朝、凪に今週末が空いていることを告げてしまった。彼女は嬉しそうに目を輝かせると、どこかへ行きましょうか、といって雑誌を捲り始めた。行き先は定かではないけれど、遠くまで足を延ばせたらと彼女が言っていたのを思い出す。どうしても時間は取れそうになかった。
押し殺したはずの思いが顔に出ていたのだろうか、彼は小首を傾げて自分に顔を近づけた。美しい瞳が薄暗い部屋の中でぎらりと光った。
「どうしたの?」
「あ、ええと・・・」
「用事か何か?」
「用事、というか・・・」
彼女と旅行に行くということが言い出せずに口籠もった。複雑な顔をしている自分を見つめて、彼はさらに追い討ちをかけるように続ける。
「一緒にいたいんだ。こんなこと、今まで言わなかっただろ?」
「・・・ええ」
「ねえ、お願い」
彼はいとも簡単にそう言ってのけると、小首を傾いで微笑んだ。
そこで自分がはっきりと約束できるような男なら良かったのに。
今週は妻と旅行なので無理ですでも、旅行の予定をキャンセルしてあなたと一緒に週末を過ごしますでも構わないのだ。そのどちらも言うこともできない自分は、曖昧な表情で曖昧に頷く。本当は頷くことすら躊躇って、ほんの僅かに顔を伏せただけだった。
それでも彼は僅かな変化を肯定と受け取ったらしい。微笑みを浮かべたまま、彼は首に回した手をより一層きつく巻き付けた。
「良かった」
ベッドに倒れるように崩れると、彼はそのまま自分を抱きとめた。汗ばんだ肌の温度が胸に触れる。そっと溜め息をつくと、彼は耳元で独り言のように囁いた。
「週末、君に会えるんだね」
「・・・ええ」
「嬉しいな」


今週末の予定が埋まってしまったことを凪に言えるだろうか。そう告げた時に凪はどんな顔をするだろうか。そう考えるだけで舌は鈍く落ちて、心は沈んだ。
それでも彼から初めて聞いた我が儘くらいは聞いてあげたかった。
彼を抱き寄せながら、罪悪感と幸福感の板挟みの間でそっと目を閉じた。どう告げたらいいのだろうか。いつ予定を埋め合わせてあげられるだろうか。これから考えなければならないことと対処しなければならないことで頭がいっぱいだった。

だからその時、彼が自分の肩越しにどんな表情をしているかなんて、知る由もなかった。


ep.6