太陽が眩しい、美しいイタリアの夏の日だった。
ボンゴレの屋敷の側のカフェでのんびりと昼食を摂りながら、凪は今週末の土日の予定に思いを馳せた。補佐として働いている自分とは違い、骸はボンゴレの幹部として多忙を極めていた。それでも今週末ようやくまとまった休みが取れたのだ。
浮かれながら雑誌を捲ると、アンティーブの美しい宝石のような海の写真が目に入る。少し遠出をしてフランスまで行くのも悪くない。彼が疲れているようならホテルでのんびりしてもいいかもしれないな。
楽しい週末を思って、雑誌のページを捲ったときだった。
「凪ちゃん」
不意に声を掛けられて、凪はびっくりしながら顔を上げた。そこに立っていたのは、骸と同じ幹部の一人である雲雀恭弥、その人だった。
「雲雀さん・・・!」
こんにちは、と慌てて頭を下げた凪に、雲雀はにこりと笑みを浮かべた。
顔を合わせるのは一ヶ月ほど前のパーティ以来だった。細身のダークスーツを身に纏っていたパーティの時とは違い、彼はビジネスライクな薄いブルーのストライプのシャツに淡いラベンダー色のネクタイを締めていた。
あの時の彼はひどく艶やかに見えたけれど、今はその片鱗も見せてない。けれども彼の表情はどこか深みを増して、見惚れてしまうほど美しかった。
「ここ、いいかな」
「もちろんです」
自分の側に食べかけのパニーニとブラッドオレンジのジュース、それから開いていた雑誌を引き寄せると、雲雀は短くありがと、と礼を述べて、アイスティーを片手に凪の隣に座った。
「へえ、アンティーブね。バカンスかい?」
凪が読んでいた雑誌にちらりと目を当てて、雲雀はアイスティーのストローを唇に当てた。
「ああ、ええ、そうなんです。今週末からあの人がお休みが取れるので、ちょっと遠出してみようかなって」
ふうん、と何故か含むような言い方をして、雲雀は笑みを浮かべたまま淡い色の瞳を細めた。端整な顔立ちに柔らかな色が滲み、それが彼をひどく女性的に見せていた。
以前、彼の眼差しはもっと剣を含んでいた気がする。彼の瞳は誰も触れられないような鋭さを湛えていた。
キャバッローネのボスと上手くいっているのかな。そんなことくらいしか理由は思いつかない。
けれども今の雲雀の眼差しが凪は好きだった。美しいながらも、どこかに甘さを孕んできらめいている。
「いいところだよ。バカンスにはちょうどいい」
「雲雀さんもいらっしゃったんですか?」
「うん。この間、恋人とね」
「ディーノさんとですか。いいですね」
夏の風に攫われてさらりと彼の髪が揺れる。風になびく長い前髪の向こうで、雲雀が一瞬驚くほどに妖艶な笑みを浮かべたような気がした。
「違うよ。あの人じゃない、恋人」
返す言葉に詰まった凪に、雲雀はにこりと微笑みかけた。その微笑はいつもと同じ透き通った穏やかな色をしていて、先ほどの笑みの色は全く消えていた。
見間違いとしか思えなかった。
「ごめんね、びっくりさせちゃったかな」
「あ、いえ・・・」
「凪ちゃんに話してもいいかな」
ほかに話せる人がいなくて、という雲雀に、凪は不思議に思いつつもこくりと頷いた。
彼は確かに骸の同僚ではあったけれど、自分と彼はそこまで親しいわけではない。こんなにプライベートな話題を聞いていいのだろうかと少し気が引けたけれど、彼が話すというのならば断る理由はなかった。
「好きな人ができてね」
ふう、とまるで煙草の煙を吐き出すように、彼は細く溜め息をついて長い睫毛を伏せる。
からん、とアイスティーの氷が解ける音がした。影のかかった瞳に少し躊躇いながら、凪はそっとその表情を覗き込んだ。
「好きな人、ですか・・・」
「うん。ずっと好きだった人、って言う方が正しいのかな。その人とそんな風になれるなんて、もう思ってなかったけど」
そう言いながら相手が目蓋の裏に浮かんだのか、彼は思いもよらぬほどに柔らかい微笑みを浮かべた。
「その人とお付き合いしたりはしないんですか?」
その問いかけに、雲雀はなぜか嬉しそうに口角を上げて笑った。目線を逸らして、ただ黙って緩やかに首を振って否定する。
立ち入った質問をしてしまったのかもしれない、と凪は萎縮したけれど、雲雀は気にしている様子もなかった。
「ディーノのことを嫌いになったわけじゃない。でも、彼のことが好きすぎてね。寝ても覚めても、彼のことばっかり考えちゃって」
ふふ、と唇から楽しげな音を零した。その柔らかな表情から、彼がどれほど相手のことを想っているのか、その相手がどれほど彼のことを愛しているのかが滲んで見える気がした。
「ダメなんだよね。全部そっちに持ってかれちゃって」
不誠実かな、と言って雲雀は微笑んだ。
無邪気とも言えるその笑みは会話の内容にそぐわないような気がしたけれど、あまりにきれいな笑みにつられて凪も思わず微笑みを浮かべた。
「誠実とか不誠実とかは私には分からないんですけれど・・・でもきっと素敵な方なんですね。雲雀さんが好きになるくらいの方なんですから」
「そうだよー。すごい格好良くて、スマートで、優しくて。ちょっと優柔不断なところもあるけど、狡くなりきれないところがまた可愛くて」
「わあ、素敵」
「でしょう?ストイックで誰も寄せ付けないふりをして、聖人みたいに澄ました顔をしててね。・・・でもね、そのくせ」
凪の耳元に僅かに唇を寄せて、雲雀は口角を上げた。周りのざわめきが遠くなって、彼の声だけがはっきりと聞こえた。
「セックスになるとすごい激しいんだ」
彼の口から出た言葉を全く予想していなかったからかもしれない。思わずかあ、と赤くなって顔を伏せた凪を見て、雲雀はくすくすと笑うとごめんね、ともう一度謝った。
「凪ちゃんも結婚してるんだから大丈夫かと思ったんだけど」
「い、いえ・・・大丈夫、です」
頬が熱くて、下を向くしかなかった。返す言葉が見つからない凪を見てまたくすくすと笑い、雲雀は飲みかけのアイスティーのグラスを持って立ち上がった。
「そろそろ戻らなくちゃ。話を聞いてくれてありがと。楽しかったよ」
「あ、いえ、こちらこそ。主人のこと、これからもよろしくお願いしますね」
立ち上がって頭を下げる。
けれどもその一瞬、雲雀が不思議な感情を滲ませたのを凪は見とめた。困ったような、言葉に詰まったような、そんな表情だった。
思わず瞬きをして、けれども次の瞬間には彼は目を細めて笑みを浮かべていた。
「じゃあね、凪ちゃん」
「はい、また是非」


「旅行、行けるといいね・・・・・・・


「え?」
けれどもそう聞き返したとき、雲雀はすでに踵を返してカフェの入り口に向かっていた。
腕にかけていたスーツのジャケットに袖を通して、きれいな色をしたネクタイを締め直す。そうして雲雀は出て行った。
何故か分からないけれど、心の中にぞわりと不安が広がっていった。その感情がどこから来るのかはわからない。
それでも靄に包まれた不安を振り払って、凪は雑誌に手を伸ばした。
家に帰ったらホテルを予約して行き先を決めよう。レストランも探しておこう。彼と一緒に素敵な週末を過ごせれば、このやり場のない不明瞭な不安はきっと消えるはずだと思った。


ep.5