お互いの日常に、表向きの変化はなかった。
彼は以前と同じように跳ね馬と同居しており、パートナーとして公式の場に出ていると聞いた。自分もそうだった。同じように彼女と幸せな暮らしを送り、彼女の作った料理を食べ、出掛けるときにはキスをする。
今まで淡々と送ってきた生活は変わらない。変えられるはずがない。たった一つの嘘だけを別にして。
自分は凪に嘘を重ねるようになった。休日を出張と偽っては日本に飛ぶ。仕事の合間を縫っている以上長くは滞在できなかったけれど、僅かな時間を見つけては逢瀬を繰り返した。
一晩だけホテルの部屋を取っては、眠ることもせずにお互いを貪るように抱き合った。
彼と会うたびに、凪に対する後ろ暗い感情と、後悔にも似た背徳感が心の奥をひたりと浸していく。
けれども、後ろ暗さと後悔は甘美な罪の味と紙一重だった。そこには背徳に堕ちたものにしか分からない快楽があった。ずるずると彼との関係を続けながら、流されるままにぼんやりと毎日を過ごしていたときだった。


屋敷の一室である舞踏室で、そのボンゴレ十代目の誕生日パーティは行われた。
屋敷の中でも一段きらびやかな装飾の施された豪奢な調度品が並んでいるこの部屋は、今日はわけても華やかだった。ウェイターに勧められるままにシャンパングラスを受け取りながら、骸は部屋の中を見渡した。
ボンゴレの幹部を初めとする構成員はもちろん、すべての同盟ファミリーの主要人物が呼ばれている。パートナー同伴を基本とするパーティは大変な人数でにぎわっていた。
先ほどから凪は同盟ファミリーの幹部夫人と楽しげに話していた。
イタリア語はまだ完璧とは言えないが、随分上達したと思う。勉強している姿を見ていたからこそ、その成果は微笑ましかった。そんな彼女を可愛らしいと思っているのに。
本来ならば自分も会話に加わるのが筋なのかもしれないが、どうしてもそうする気にはなれなかった。凪の後方で控えたまま、グラスを唇に当てて視線を彷徨わせた。
そしてその視線の先に映ったものに、思わず目を見開いた。
扉を開けて入ってきたのは、紛れもなく彼だった。細身のダークスーツに漆黒のシャツを合わせ、美しい深紅のネクタイを締めている。いつものスーツ姿と大きく違うわけではない。けれどもその姿はひどく艶かしく映った。周囲に軽く挨拶をしながら、彼は後ろを振り向いた。その彼の視線の先にいた人物に、思わず息を呑んだ。
長身の体躯を黒のスーツに包み、白いベストに合わせるように襟元にはグレーのアスコットスカーフを結んでいる。きらきらと光る蜂蜜色の髪を綺麗にセットして、彼の後ろから現れた男――
ああ、跳ね馬、だ。
一瞬息が詰まって、世界が止まったような気がした。自分の手前にいる凪が、周囲が、会場内のすべての人間が遠くなっていく。
彼と跳ね馬だけを残して、視界には何も映らなくなった。
彼は何かを跳ね馬に告げると、真っ直ぐに自分を見とめた。この広い会場内を見回すこともしなかった。それはまるで自分がどこにいるのか、最初から知っているような仕草だった。
にやりと薄い唇が上がる。人の波を縫うようにしてゆっくりとこちらへ歩を進めてくるのを、ただそこに立ち尽くしたまま彼を見つめることしか出来なかった。

「やあ、骸。久しぶり」
「・・・お久しぶりです」
定石を踏んで同じような答えを返した。本当は久しぶりなどではない。ほんの数日前に、彼を執務室で抱いたばかりだった。崩れ落ちるように床の上で、獣のように。
「雲雀さん!」
不意に割り込んできた凪の声に、骸ははっと我に返った。どうやら夫人との話しを切り上げてこちらへ来たらしい。ぎくりとした自分をよそに、彼は凪を見とめるとにこりと芝居めいた笑みを浮かべた。
まるで演劇のようだった。役者は彼と、凪と、そして自分だ。
「凪ちゃんも久しぶり。三ヶ月くらい前に任務では顔合わせたよね。話は出来なかったけど」
「ええ、お久しぶりです」
「そういえば結婚したんだよね。ごめんね、式にも顔出せなくて」
いいえ、と凪は明るい笑みを浮かべて首を振った。彼がちらりと含んだような視線をこちらに遣る。慌てて彼から視線を逸らして、内心の動揺を押し隠しながら、大して飲みたくもないシャンパンのグラスを口に運んだ。
「結婚生活はどう?この男、いい旦那してるかい?」
ウェイターから自分と同じシャンパンのグラスを受け取りながら、彼は揶揄するような口調で問いかけた。
「勿論です。すごくいい旦那様ですよ」
ね、と凪が無邪気な笑みを浮かべてこちらを見上げる。返す言葉に詰まって、曖昧な笑みだけを返した。
「でも、結婚したのになかなか一緒にいられる時間がなくて。やっぱり幹部の方は忙しいんですね。特に最近、骸さんも休日なんてほとんどなくて」
「・・・・・・へーえ」
彼は黒曜石の瞳をそっと細めると、口角を持ち上げて微笑んだ。美しい瞳がきらりと妖しい光を宿したのに気が付いて、ぞくりと背中に冷たいものが走るのを感じた。
休みがないというのは自分が彼女についた嘘だった。休みがなかったのではない。休みがないと彼女に嘘をついて、日本へ飛んでは彼との逢瀬を繰り返していたのだ。
彼女は自分の嘘を信じている。
そして彼は、自分がついた嘘に気が付いている。
「凪ちゃん、骸には"ちゃあんと"鎖つけておかなきゃダメだよ」
「え?」
「この男は浮気するタイプだからね」

彼はにこりと笑みを浮かべると、小首を傾いで自分を見据えた。
眩暈がした。冗談めかしたその口調が冗談ではないことを、何より自分が知っている。
頭が真っ白になって、思わず声を荒げた。
「なに言ってるんですか!」
「やだなあ、冗談だよ」
ねえ凪ちゃん、と彼は凪に同意を求める。冗談としか思っていない凪はくすくすと笑うと、彼に同意するようにそうですよね、と頷いた。
「雲雀さんも・・・ディーノさんとすごくお似合いですね。さっき一緒に入っていらしたとき、思わず見惚れちゃいました」
「そう?ありがと」
「もう長く一緒にいらっしゃるんですね」
「そうだね、二年くらいになるかな」
シャンパンをきちんと味わいながら、彼がそう返したときだった。

キョウヤ、と彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。声に反応して彼が振り返る。そんな風に彼のことを呼ぶ人間はきっと一人だろう。それが跳ね馬であることは明らかだった。
彼は飲みかけのグラスを通りかかったウェイターの盆に返した。
「ごめん、行かなくちゃ。またね、凪ちゃん」
「ええ、また」
「骸も、・・・また今度」
彼はどこか含むところのある言葉を残して、ディーノのもとへと歩いていった。
振り返りざま、自分だけに見えるように秘密めいた笑みを浮かべたのが自分だけには分かった。
その背中を目で追ったまま、人混みにまぎれて彼を見送っていた。
その場に立ち尽くすしかなかった。
「雲雀さん、すごく素敵になってた・・・」
「え?」
唐突に凪から聞こえた言葉があまりに意外で、思わず聞き返した。凪は口元に両手を遣って、ぼんやりと雲雀の後姿を見つめていた。
「色っぽくなったっていうか、男っぽくなったっていうか・・・骸さんもそう思いませんでした?」
「そう、でしょうか・・・。跳ね馬と一緒にいるからじゃないですか」
「うーん、ちょっと前にお会いしたときにはそんな風に思わなかったんですけど・・・きっと最近何かディーノさんとすごく素敵なことがあったんですね。まるで初恋の人と結ばれたみたいに嬉しそう」

いいなあ、素敵ですね、羨ましそうにそう言って、凪はきらきらした眼差しで自分を見上げた。
返事を返すことが出来なかった。
彼女は何も知らない。
以前自分たちが五年ものときを一緒に過ごしたことも、今関係を結んでいることも。
それでも彼女の憶測は当たっている。自分たちがこの関係を始めたのは二ヶ月ほど前だった。彼女が彼と顔を合わせた三ヶ月の間に何かがあったというのならば、それは確実に自分との関係に違いなかった。
凪がこちらを不思議そうに見上げる。自分は努めて平静を装って微笑みを返した。
それでも自分は空恐ろしい思いに包まれていた。
いつかこの関係が彼女に知られるときが来るのではないのかと。


ep.4