一度壊れたものはもう元に戻すことは出来ない。最初にそう言ったのは誰だっただろうか。
蓋をしておくことは出来た。守るべきものを理由に目を逸らすことは出来た。
けれども、たった一度のことで箱は簡単に瓦解した。
幹部全員が顔を揃える会議があると連絡を受けたのは、彼の噂を聞いた次の日だった。

六人いる幹部も今はさまざまな地域で指揮を執っており、全員が顔を揃えるような秘密性の高い会議は年に数度もない。けれどもそんな会議でも、彼は草壁を代役に立てて送ってくることが多かった。
自分が実際に指揮を執らないと気が済まない彼らしい、とボンゴレ十代目は目溢しをしていたらしい。だからこそ、自分は彼と顔を合わせることがほとんどなかったのだ。
けれども今回に限って、彼はきっちりとスーツを着込んで現れた。はす向かいにゆっくりと腰を下ろすと、彼はちらりと自分を一瞥した。
会議が始まっても、感情の波が静まることはなかった。
報告を幹部の前で述べながら、視線は定まらずに空を彷徨う。冷静な仮面を被りながら、心がざわめいているのを必死で押し隠していた。
本当に彼は跳ね馬と付き合っているのだろうか。自分が結婚したことも知っているのだろうか。だとしたら、彼はそのことをどう思っているのだろうか。
嵐の守護者が何かを言っている。彼が話している内容が重要なことだと分かっているのに、言葉は耳に入っては何も残さずに零れ落ちていった。
彼をまともに見ることも出来ないまま、会議は終わった。幹部たちは談笑をしながら、各々ばらばらに席を立っていく。早くこの場から去ってしまおう。
そう思って、椅子から立ち上がったときだった。

「骸」

心臓が大きく拍動を打った。ああ、やっぱり。どこかで期待していたのだ。彼が自分に声を掛けてくれることを。なんて狡猾なのだろう。なんて卑怯なのだろう。
競り上がってくる自己嫌悪を嚥下しながら、それでもゆっくりと後ろを振り返った。
黒のスーツに身を包んだ彼は、自分が振り返るのを待ってからにこりと微笑んだ。
「久しぶり」
「・・・お久しぶりです」
上手く笑えていたかは分からない。声が震えないように、内心の動揺を押し隠すだけで精一杯だった。悟られてはならないと思う気持ちが急かすように舌を動かした。
「お元気そうで何よりです」
「うん、君もね」
いつの間にか幹部は皆会議室から去って、そこには自分と、彼だけが残されていた。
薄めのカーテンの引かれた窓から、外の光が僅かに部屋の中に差し込んでいた。
「そういえば君、あの子と結婚したんだって?」
「―はい」
やはり知っていたのだ、そう思いながら骸は頷いた。
顔を合わせないとは言え守護者同士のことである。耳に入らない方が可笑しいかもしれない。けれども彼の声によって発せられた言葉は、ずっと重みを持って骸の中に入ってくる。
「一年前に、籍を入れました」
「そう」
さらりと返事を返すと、彼は何故か暗い部屋の中で眩しそうに目を細めた。一瞬その眼差しに僅かに感情が滲んだような気がして、けれどもそれはやはり判然としなかった。
「僕も、君の噂を聞きましたよ。・・・跳ね馬とはどうなんですか?」
「別に、大したことない。上手くやってるよ」
「・・・そう、ですか」
予測していた言葉だったにもかかわらず、一瞬言葉に詰まった。
現実の色を帯びて、部下の言葉が甦る。
その言葉は胸の中にゆっくりと沈んでいった。
そんな自分を見つめたまま、彼はゆっくりとこちらへ歩を進めた。
一歩一歩、彼が歩くたびに二人の間の距離が縮んでいく。
「気になるんだ」
意外な言葉ではあった。それでも彼があまりにさらりと言ってのけたから、ゆっくりと言葉を選んで返すことができた。
「それは・・・そうじゃないって言ったら嘘になりますけど、でも貴方が幸せなら、僕はそれで」

「僕が好きなのは君だよ」

一瞬、その意味が呑み込めなかった。目を見開いたまま、ぽかんと目の前の彼を見つめた。まるで石になったようにその場に立ち尽くす自分を見て、彼はもう一歩、自分との間を詰めた。
もう、彼との間に取る距離はなかった。
「僕が好きなのは君だ。十五のときからずっと、僕は君だけが好きだった。君と別れてからも、ずっとずっと、僕は君が好きだった」
足はひとりでに後ずさった。その脚に自分が座っていた椅子がぶつかって、がたりと耳障りな音を立てる。
カーテンの奥から傾き始めた陽が差し込んで、彼の笑みを一層艶かしく見せていた。
「ねえ、骸」
彼が自分の名前を呼ぶ。耳元に唇を近づけて、彼は囁いた。

「君も、そうだろう?」


その言葉を聞いたときに、もう取り返せないことを知った。感情を押し込めていた理性がゆっくりと崩れていく。思考が切れたように真っ白になっていくのを感じていた。
彼女を傷つけることになるかもしれない。積み上げてきた幸せを失うかもしれない。
もう何気ない普通の日常は戻ってこないかもしれない。そして、あの時と同じように彼をも苦しめてしまうかもしれない。
最後の理性が叫んでいる。それを押し込めたのは、自分だった。

感情のままに彼を床に押し倒して、その唇を貪るように口付けた。白いワイシャツを引き裂くと、真っ白な素肌が覗く。その首筋に顔を埋めると、自分の知らない香水が香った。
何も考えられなかった。
ただ只管、自分の身勝手さを吐き気がするほど嫌悪していた。


ep.3