あの事件に始まったことではない。
彼の心がどこにあるのか、その目が本当は誰を見ているのか、掴んでいる手を離したら彼がどこに行ってしまうのか、私はずっとずっと、感づいていた。
少し目を凝らせば見えてしまいそうで、だからそっと目を逸らそうとした。
何もないのだと必死で思い込もうとしていた。
私はいつだって、不安だった。
彼がいなくなったらどのように生きていったらいいのか分からなかった。
ずっと側にいたあの人がいなくなったらと考えるとひどく怖かった。

あの人が彼を連れて行こうとする、
彼が私の元を離れようとする、
いやだ、
あの人のもとへは行かないで、
いや、
いやだ、
どうにかして、
彼を引き止めておかなければ、
どうにかして、
ああ、
そうだ、

子供さえいれば。


信号が青に変わる。
一斉に歩きはじめた人ごみを避けるように、凪はそっと街路樹に寄りかかった。
ひどく息が苦しかった。

妊娠しにくい身体だと医者から伝えられていた。
それでも一縷の望みをかけて、私は病院に通い続けた。
彼に伝えることはしなかった。
もし伝えたとしたら、彼はきっと恐ろしいものを見るかのように私を見るのを必死に堪えて、穏やかな笑みを浮かべただろうから。
夏に病院に通いはじめ、なんの兆候も示さないまま秋が来て、冬になり、春が来、そしてまた夏が来た。
あっという間に季節は過ぎていったのに、いくら望んでも私の子宮は新しい命を宿すことを執拗に拒んだ。
そうして病院に通いはじめて一年が経ち、妊娠の可能性がないと医者から告げられた日。
私は家に帰って、彼に笑顔で報告した。
子供が出来ました、と。

意味のないことだと分かっていた。 すぐに白昼のもとに晒されるであろう嘘をついた愚かさにも疾うに気がついていた。
それでもそう言わずにはいられなかった。
もし今その言葉を口にしなかったら、彼はこの瞬間にも私の手を振り払い、どこかへ行ってしまうと思ったから。
それは予感ではなく、確信だった。

でもこの愚かな嘘も、結果的に彼をつなぎ止めることはできなかった。
ほら、こうして彼は離れていった。
苦しそうな顔をして、それでも何も言わずに。
それでも私が分かることがある。
彼は卑怯だったのでも、不誠実だったのでもない。
彼は優しすぎる人だったのだ。
私の手など振り払えば良かったのだ。いくらだって逃げ出す道はあったのだ。
それでも彼は誰の手も振り払えず、誰を傷つけることも選べず、すべてを受け止めようとして、
そしてすべてを失った。
その愚かしさからあえて目を背けながら。


彼の幸せを願ったりなど決してしない。そんな聖人のようなことは私には出来ない。
死ぬほどの後悔と不幸を味わえばいい。
そう頭の中では思うのに、心はひどく静かで、暗く澄んでいた。
ああ、終わったのだ。
そう思った。

ずるずると木を伝って、凪は道路に崩れ落ちた。
行き交う人に誰も自分を気にするものはいなかった。
誰も自分など見ていなかった。
じわりと涙が滲んで、アスファルトに落ちていく。
ただ一人、雑踏の中で自分がゆっくりと透明になっていくのが分かった。

さよなら、誰よりも愛しい人。
さよなら、誰よりも愛した人。


ep.19