三月の終わり、少しだけ寒さの残る、けれども穏やかな日差しが降り注ぐ日だった。
この季節がまた巡ってきた。
桜の季節が、巡ってきた。
この季節が自分はなによりも一等に好きだった。
あたたかな春の日差し、穏やかな色をした青空、そして淡い色をしたあの花。
母国だけが持つ、春の色。
五年ぶりに降り立ったこの国はなにも変わっていなかった。
ずっとずっと、忘れようと思っていた。
この花のことも、彼と一緒に過ごした記憶も、思い出も感情も、すべて。
そうやってそっと心の奥へ隠して、胸の底に深く沈めて、すべてを忘れて生きていこうと思った。
そう思っていたのに。
忘れることはできなかった。
その手の優しさも、自分を見つめる眼差しも、あたたかな手の温度も。
まるで忘れていた傷口から血が滲み出すように、記憶はいつでも鮮やかに蘇って、その度に胸を締め付けた。
彼が残したたくさんの記憶が、感覚が、自分の中に深く深く刻み込まれていた。
消すことが出来ないほど、深くに。
棄ててしまおうと幾度も試みて、そのたびに彼の残したものの大きさに絶望を知った。
もう彼に会うことはないのだと、覚えていても辛くなるだけなのだと、分かっているのに。
だから無様に藻掻きつづけて五年が経ったとき、ようやく決断したのだ。
あのとき、彼と別れるときに密かに自分に許したことがある。
忘れることが出来ないのならば、記憶をすべて抱いたまま、ずっと彼を思い続けて生きていこうと。
そのときには桜を見に行くことを自分に許そうと。



こつり、と革靴が地面を打つ音が響く。
その廃墟は、記憶の中のものよりもまた少しだけ褪せた印象を受ける。朽ちていく建物の中に、雲雀は足を踏み入れた。
ほとんどの窓硝子は壊されて、至る所に硝子の破片が散っていた。床には錆びたスプレー缶や褪せた色をしたカーテンが無造作に落ちている。
相変わらず殺風景なその風景は中学生の頃に見たものとほとんど変わっていなかった。
ゆっくりと歩を進めながら、雲雀はその廃墟の中を真っ直ぐに突っ切った。
彼が幻覚の桜を見せたこの廃墟の片隅に、本当の桜の木が一本あった。
天井に咲く夏の桜ではなく、春だけに咲くごくごく在り来たりな、大きな桜の木。
あの事件の後、幾度かここに桜を見に来たことがある。
彼にも告げず、たった一人で、朝から日が暮れるまで、ただひたすら地面に座って、その花を見つめていた。
それはまるで御伽話のような、時間が止まってしまったかのような、不思議な空間だった。
けれどもそれもずっと昔の話だ。
切り倒されてしまっていてもおかしくない、と思いながら錆び付いた鉄の重いドアを開く。


開いたところから見えたものに、雲雀は思わず息をのんだ。
見事な桜の木が、そこには残っていた。
枝の一つひとつに満開の花を携えて、大きな桜の木は凛然と立っていた。微かな甘い香りの中で、脆い花びらは風もないのにふっと儚く枝を離れて落ちていく。
あたたかな春の空気の中で、淡い色をした花びらが雪のように舞うのを雲雀は息をのんで見つめていた。
あまりに静かで、あまりに美しい光景だった。
しいんと静まり返った廃墟の片隅で、美しい色をした花びらの積もる小さな小さな音だけが、静かな静かな空間を満たしていた。
何も変わっていない。
この桜の木も、この場所も、自分の記憶も。
思わずその人の名前を呟きそうになったときだった。

「雲雀くん」

自分を呼ぶ声が聞こえた。
甘い音をした、穏やかで静かな声だった。
かけられたその声を知っていた。知らないはずがなかった。
ゆっくりと後ろを振り返る。
風に揺れる濃紺の髪、色違いの赤と青の瞳、その瞳の奥の優しい眼差し。
振り向いた視線の先に、彼がいた。
あの時と同じ彼がいた。
風に攫われた桜の花びらが、ざああと音を立てて彼と自分の間を通り抜けていった。
「お久しぶりです」
丁寧な仕草で自分と目を合わせて、彼はまた笑みを深めた。
甘い色を滲ませた眼差しが細められて、綺麗な唇が弧を描く。
それは自分がとてもとても好きだった、彼の微笑みだった。
ずっと焦がれてきた人に会えた喜びよりも、出来すぎた偶然のような再会よりも、なによりも不思議な安堵の気持ちがこみ上げてきた。
ああ、変わらない。
何も変わっていない。
その眼差しも、優しげな微笑も、穏やかな物腰も、その声も、すべてが雲雀をあの時に引き戻した。
懐かしさとなった感情が瞬間、体を駆け抜けて、けれども心は思った以上に穏やかだった。
雲雀はそっと微笑みを返した。
「・・・久しぶりだね」
「本当に・・・偶然もあるものですね」
ゆったりとした仕草で桜の花を見上げながら、骸は穏やかな口調で呟いた。
「こんなところで君に会うなんて」
肩に落ちてきた桜の花を彼がそっと、静かに払う。その表情は年齢を重ねて、二十代のときよりもまた少し落ち着いてみえた。
ふと彼が淡い花から目線を逸らして、自分へと向き直る。ふわりと柔らかな笑みが滲んで、桜の花の中で甘さとなって溶けた。
「お元気でしたか」
「・・・うん、とても」
「今は日本に?」
「久しぶりの帰国だよ」
そう言いながら、そっと左手を彼から隠す。
そのままさりげない仕草で身体の後ろに手を遣った。
忘れられないのならば、忘れなくてもいい。
ただ密かに彼を思い続けていくことができればいい。
同じことを繰り返して、たくさんの人を、彼を傷つけて、ようやく積み重ねた五年もの月日を壊して。そうすることは、もう彼も、自分も、望んでいないような気がした。
右手の中指に嵌めていた指輪をそっと抜く。躊躇うことはなかった。
雲雀はそのままその指輪を左手の薬指へと嵌め直した。
「桜を見せたい人がいてね」
そっと彼の前に左手を翳す。
細い薬指できらりと光った白金の指輪を見とめても、彼は表情を変えなかった。
ただ優しい笑みを浮かべて、彼は黙ったままそっと目を細めた。
「君は?」
彼がおもむろに桜の花に近づくように、一歩、歩を進める。積もった桜の花びらがさくりと鳴る音がした。
「ええ・・・幸せにやっています。凪と、一緒に」
「子供は?」
「・・・そろそろ欲しいなって、二人で話しているんですけどね」
そう言いながらどこか困ったように笑った彼の顔は、自分の知っているものよりも少しだけ大人びていた。
ああ、大人になったんだな。
当たり前の事実に、けれども雲雀は不思議な感覚にとらわれた。
大人になったのではない。ようやく、大人になれたのかもしれない。
彼と出会ってから、もう十五年以上の時が流れていた。
小さく吐き出した溜め息はほんの僅か空気を震わせて、春の雪の中に消えていった。
「あれから、もう五年だ」
それはひどく小さな音だったけれど、それでも彼には届いたらしい。彼はそっと目を細めて、ああ、と呟いた。
「五年も経ったんですね」
「もう、昔の話だね」
「・・・そうですね」
「歳を取るわけだ」
君も、僕も。
茶化すように言った自分の言葉に、彼は微笑んだ。
ふつりと会話が途切れて、どちらともなく、いつしか二人で花を見上げた。
透明な沈黙がこの隔離された空間を支配する。花びらだけが静かにはらはらと舞い落ちて、自分たちに、自分たちの間の何か見えないものに降り注ぐ。
「雲雀くん」
急にかけられた声に、雪のように降り注ぐ桜へ当てていた眼差しを、彼へと返した。
淡い花びらの嵐のその先から、色違いの双眸が自分を見つめていた。
「今、幸せですか」
その言葉はとてもさりげなく響いた。何の意図もないように、まるで軽い挨拶であるかのように。
けれども自分はその問いの重さに気がついていた。
もしも、このときに違う答えを返したのならば、違う未来があったのだろう。
もしも、自分が五年間君のことを考え続けて生きてきたのだと、どうしても君のことが忘れられなくて日本に来たのだと、一生この思いを抱き続けたまま生きていくつもりだったのだと、言えたのなら。
きっと違う未来があったのだろう。
だから答えを迷うことはなかった。
「幸せだよ」
思いのほかにはっきりとした声だった。彼の二つの瞳は何かを見つめるようにそっと瞬く。
それは静かに細められて、彼はどこか寂しげな、優しすぎる笑みをつくった。
「・・・どうかそうあってください」
あなただけは、そう続いた声はまるで祈りの言葉のようだった。
それは年月を重ねた、彼の本心だろうと思った。
「・・・君もね」
にこりと笑って返すと、彼は小さく頷いた。
「そろそろ行かなくちゃ。・・・人を待たせてるから」
そんな用事もないのに、雲雀はあえてポケットに入れた携帯電話を手に取った。
またね、という言葉が喉のそこまで出かけて、雲雀は口を噤んだ。
また、はないのだ。
もう彼に会うことはないだろう。
今日彼とこうして出会った偶然は偶然ではなくて、きっとこれは自分に許された、最後の機会だったのだろう。
でもようやく確認できた。
彼はあの子と一緒に幸せになっている。子供こそ今はいないけれど、あたたかな家庭をつくっていく準備もできている。彼も自分にパートナーがいると思っただろう。
もう今度こそ、壊してはいけない。壊すことはない。
彼は今、幸せなのだから。
その事実は鈍い痛みと、どこか不思議な安堵となって雲雀の中に落ちていった。

「・・・じゃあね」
彼から視線を逸らして歩き出す。
そこに立ち尽くしている彼の横をすり抜けて、舞い散る桜の花びらをすり抜けていく。
花の香りが遠くなったそのときだった。


「またいつか」


後ろからかけられた声に、ひゅ、と喉がなった。
思わず足が止まる。
目を見開いたまま、雲雀はゆっくりと後ろを振り返った。
桜の花びらが舞い散る中で、柔らかな笑みを浮かべたまま、彼は真っ直ぐに自分を見つめていた。
視線を合わせるその眼差しは、けれどもどこかもっと先、遠い未来を見つめているような気がした。
「またいつか、会いましょう」
まばたきをすることも忘れていた。
声が出せなくて、何を言うべきなのかも分からないまま、雲雀はそこに立ち尽くしていた。
そうやって視線をかわしていたのがどれだけの時間だったのかは分からない。
どこまで続くとも知れない、薄い殻に包まれた脆い沈黙を破ったのは嵐のような春風だった。
唐突に温い風がびゅうと吹く。
無数の花びらが温い風に舞い上げられ、青い空の色に淡い色を滲ませる。攫われた花びらは大きく弧を描いたかと思うと、春風に乗って遠くへとすり抜けていった。
小さな花びらが自分の頬をくすぐって、自分の髪を掬い上げていく。
そっと微笑みを向けて、雲雀は小さく息を吐いた。

「・・・そうだね」

彼は微笑みを浮かべたまま、また小さく頷いた。
その笑顔を見届けて、雲雀はまた元来た方へと歩き出した。
もう彼を振り返ることはしなかった。

もしかしたらいつか、彼と会える日が来るのかもしれない。
それは一年後なのか、五年後なのか、それともずっとずっと先の未来なのかは分からない。
それでもいつかまた、僕たちが交差するときが来るような気がした。

ほどけた赤い糸が交わるように。





fin.