「骸さん!」

その言葉が耳に届くのと同時に、ものすごい力で手を引かれた。
咄嗟のことにバランスを崩しながら、骸は後ろを振り返った。
そこには、息を切らして自分を見つめている彼女が、凪が、いた。
自分を正気に引き戻した彼女は、真っ暗な目で自分を見つめていた。
は、と息を切らしたまま、そっと息を飲む。
次にかけられる言葉に覚悟を決めた自分と対照的に、彼女はふわりといつものように微笑んだ。
「もう、いきなり走り出すんだから。びっくりしましたよ」
「な、ぎ」
「さあ行きましょう」
思わず後ろを振り返る。
その人はまさに人ごみの中に入っていくところだった。
目を凝らして見つめるよりも前に、彼のきれいな黒髪は、たくさんの人に紛れて、飲まれて、見えなくなった。
「ほら、信号変わっちゃいますよ」
自分をこちらへと向かせて、有無を言わせない念押しのようにそう言って彼女は微笑んだ。
口を開こうとした自分を遮って、彼女が掴んだままの手を引く。
今度は決して離さない強さで。
どうすることも出来ずに、その手に引かれるまま、骸は一歩、ゆっくりと足を踏み出した。
そうだ。
何を考えていたんだ。
こんなことで壊してはいけない、揺らいではいけない。
横断歩道から人が徐々にいなくなっていく。
信号が変わるまであと僅かしかない。
そう十秒、たった十秒だ。
青信号が点滅し始める。
決められる訳がない。決めてはならない。
たくさんの人を傷つけて得た幸せを、もう二度と手離してはならない。
そう、思ったのに。
これ以上足は動かなかった。

繋がれた手を、骸はゆっくりとほどいた。

「ごめんなさい、凪」
振り向いた凪の目が大きく見開かれていく。
黒目がちな瞳が自分に当てられて、まばたきもせずに自分を見つめる。
まるで恐れていたことが起きたかのような仕草で。
「何を・・・言ってるんですか」
「・・・すみません」
点滅していた青信号が瞬間、赤色に変わった。
車が走り出そうとする。呆気にとられていた凪は、それでも行きかけた道をゆっくりと引き返して、自分の立つ歩道まで戻ってきた。
こつりと、高いヒールの靴がアスファルトを叩く音がした。
「どういうことですか」
「・・・」
「骸さん」
「・・・僕は、この道を渡れない」
エンジンの音がして、車が一斉に走り出した。
砂埃を巻き上げて、人々の話し声を巻き込んで、すべてを雑音に包み込んでいく。
押し黙った自分に対して、凪はもう一歩こちらへ踏み出した。
思わず後ずさろうとするよりも彼女の方が早かった。細い手からは想像もつかないほどの力で、彼女は自分の手を掴んだ。
「何を言ってるんですか」
「・・・すみません、」
「ここまで来てすべて壊すんですか」
「・・・」
「ねえ!!」
聞いたことのない声だった。今まで一度も出したことのない大声を、けれども通りすがる通行人は誰も気づくことはない。
自分達の会話は車のエンジン音と、ざわめくたくさんの人の会話で掻き消されていた。
ここにいるのは今、凪と自分だけだった。
「すべて捨てるんですか。あなたはここまでつくり上げてきたものすべてを捨てるんですか!」
「・・・はい」
「どうして!?」
悲鳴に近い声で凪が叫んだ。何かを問いただそうと、自分の手を掴む手に力が入る。
彼女は必死で自分の目を覗こうとした。
「あの人は、もうあなたのことなんて好きじゃないかもしれないのに!」
「・・・知っています」
「たった一度のことでしょう!?気の迷いじゃないですか!」
「・・・」
「ねえ、骸さん!」


「違うんです」


ゆっくりと眼差しを上げて、骸は凪を見つめた。
「もう、十年になるんです」
「何を・・・」
「十五歳の頃、僕は彼が好きでした。一緒にいられた五年間は、本当に幸せだった。それでも二十歳になったとき、僕は彼の手を掴めなかった」
「何を言ってるんですか・・・」
「意気地がなかったんですね。彼のことを考えてるって言い訳をしながら逃げていたんです。責任を負うのが、自分で決断することが、僕は怖かった」
そっと彼女の手を自分の手から外す。白くなるほどひどく力の入っていた手は、驚くほどするりとほどけていった。
「それから五年が経って、また彼と出会って。僕はまた同じことを繰り返した。今度はたくさんの人を傷つけて」
「・・・」
「凪の言う通りです。彼はきっと、もう僕のことなんて好きじゃないと思います。・・・幻滅してると、思います」
それでも、そう言葉を続けることしかできなかった。
息が苦しい。自分はまた彼女を裏切ろうとしている。でももっと苦しいのは、彼女だ。
「僕は、忘れられないんです。分かっています。どんなに自分が狡いのかも、卑怯なのかも、不誠実なのかも。君には謝ったって謝りきれない。許されるなんて思ってない。でも、もう、僕は、だめだ」
「骸さん、」
「僕は君を裏切って、君はそんな僕を許してくれた。でも僕は、ずっとずっと、・・・そんな君を裏切り続けてきたんです」

愕然とした表情で、彼女はそっと唇を開いた。桜色に染められた唇が何かを紡ごうとして、僅かに動く。
それでも言葉は音にならずに、彼女の唇を滑り落ちていった。
最後まで傷つけることしかできなかった。
愛していなかったわけではない。
彼女のことを大事に大事に思っていた。
もしも彼がいなかったのなら、自分は彼女と幸せな人生を歩んだのだろう。
もしも彼が、自分が誰よりも愛した人が、いなかったのなら。

「・・・ごめんなさい、凪」
「・・・」
「最後まで、君にはなにもできなかった」
真っ直ぐに自分を見つめていた瞳にじわりと何かが滲んだ。不安定に空を彷徨って、自分から逸らされた視線は、ゆるゆるとアスファルトの地面へと落とされた。
凪、そう声をかけるよりも早く、彼女がぽつりと呟いた。
「・・・行ってください」
静かな声だった。
「早く、行って」
「・・・」
「もう二度と、あなたには会いません」


どんな声をかけるのも無意味だと思った。ただ黙って立ち去ることが、自分に出来る最後のことだと、そう思った。
だから歩き出した歩を止めることをしなかった。
後ろを振り向くこともしなかった。
嫌うだけ嫌ってくれたらいい。憎むだけ憎んでくれたらいい。
彼女が自分を殺したいと思うのなら、それすら甘んじて受け入れたいと思う。
そう思うけれど、彼女はきっとそうはしないのだ。
それも自分は、分かっていた。


早足で歩を進めて、骸は雑踏の中にそっと溶け込んだ。



ep.18