「わあ、懐かしい!」

都会の真ん中、大きなスクランブル交差点の真ん前で立ち止まって、凪は感嘆の声を上げながらあたりを見渡した。
信号を待つ膨大な人の数、目の前を横切るたくさんの車、大きな広告、デジタル看板、溢れかえる色、物、音。
彼女が東京を離れた数年前からこの騒々しさは変わらない。
それでも自分たちの住居はイタリアの南、郊外の住宅地にあったから、その静けさになれてしまうとこの喧噪も新鮮なのだろう。
「相変わらずですねえ」
都心の喧噪を眺めて、彼女がこちらを振り返る。その笑顔にこたえるようにして、骸は同じように微笑みを浮かべた。
「君はずっと帰国してませんでしたものね」
「ええ、本当に」
変わってないんですねえ、そんなことを言ってまるで観光客のようにきょろきょろとあたりを見渡す凪の隣に骸は立った。
「さあ、はしゃぐのもこれくらいにして。行きたいところがあったんでしょう?」
「あ、ええ、そうなんです」
嬉しそうに笑みをこぼして、凪は歌うように言った。
「ベビー服を見に行こうかと思って」
そう言いながら彼女はまだ膨らんでいない下腹部をそっとさすった。その仕草はまるで母親のそれそのものだった。
ああ、この子はもう準備ができているのだ。
子供を産み、成長するまでしっかりと責任を持って、母親となり育てていく決心が。
感嘆の溜め息を漏らした骸をどう受け取ったのか、凪はそっと小首を傾いだ。
「まだ気が早かったかしら」
「・・・そんなことはないですよ。早いに越したことはないでしょう」
にこりと笑ってそう言った骸に、凪は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「さあ、行きましょうか」
「ええ」
彼女が腕を絡ませてくるのと同時に、信号が黄色から赤へと変わった。
歩行者の信号がぱっと緑に変わった。
一斉にたくさんの人が一方向へと歩き出す。
その人ごみに紛れながら歩きはじめようとした時だった。
不意に、自分の横を一人の男がすっと通り過ぎていった。
短い髪が靡く。ふわりと香水の香りがはじける。
その瞬間、骸は思わず後ろを振り向いた。

硬質な深い色をした黒髪。
細身の体躯はストライプのワイシャツに包まれている。
周囲の視線を避けるように伏せられて、影になった奥から、見覚えのある強い眼差しが滲んでいた。

思わず息が詰まる。
ひゅっと喉の奥で音がする。
視界が暗く落ちて、彼だけが自分の前に浮かび上がる。
鼓動が早くなっていく。
心臓の音が耳のすぐ裏で聴こえる。
それはまるで警報のように脳の中を浸して、鳴り響いていた。
間違いない。間違いない。
彼が、彼が、

気が付いたときには彼女の腕を振り払っていた。
呼び止める声がするよりも早く、骸は駆け出していた。
走り出した自分の背中に向かって凪が何かを叫んでいる。
骸にはその音も聞こえなかった。
早足で歩いていくその人をひたすらに追いかけた。
人をすり抜けて、押しのけて、骸は走った。
捕まえなくては、捕まえなくては、
その人の名前が口からこぼれそうになったときだった。



ep.17