めまぐるしい速度で時は流れていった。
明るく眩しい初夏。
忙しい毎日。
何も変わらない優しい妻。
一年前と違うのは、そこに彼がいないことだけだ。
結局、自分は何の制裁を受けることもなく暮らしている。
彼の行方を誰も知ることはなかった。
彼が失踪した直後、ボスは直々の命を出して秘密裏にボンゴレの直属の部隊に彼を追わせていた。
それでもいつまで経っても彼の足取りが掴めないことを知った時、ボスは雲の守護者を追うのをやめた。
それだけの覚悟があったのだったら、俺はもう、雲雀さんを苦しめたくない。
そう言って、彼は会議でそっと首をたれた。
何も失うことのないままに、犠牲にすることもないままに、誰かを傷つけて手に入れた幸せがおかしなくらい上手く回っている。
凪は相変わらず自分を気遣ってくれていた。
美味しい料理を作り、こもりがちな自分を連れ出して、当たり前のように優しい笑みをくれる。
まるで、彼がいなくなった穴を埋めるように。

それでも一日たりとも、忘れたことがない。
時々あまりに鮮やかに蘇る。彼の髪が、香水が、体温が、肌が、声が、眼差しが。
忘れることが出来ないことを知っている。
だからゆっくりと自分の中の記憶を見つめている。見つめながらそっとその記憶を閉じ込めようとしている。
灯火がゆっくりとその炎を消していくように、花の蕾がゆっくりと凋んでいくように。

世界は自分の運命を決めている。
自分はそれに従っている。手を引かれるままに、愛される人を愛するままに、歩を進めながら。
ただひたすら自分が考えてることは一つだけだった。
どうしたらもう彼女を悲しませることがないのか、どうしたら彼女に少しでも何かを返せるのか。
クリスマスには指輪を贈り、バカンスには小旅行に出かけた。誕生日を評判のレストランで祝い、花を贈った。
彼女が嬉しそうな顔をするのを見て、どこかで安堵している自分がいた。
だから病院から帰ってきた彼女からとてもとても嬉しそうに、妊娠したのだと告げられた時、ようやく少し気持ちが和らいだのが分かった。
彼女が少しでも喜ぶのならそれでいい。
そうして流れに身を任せて生きていくのだと思っていた。

「骸さん」
急に呼びかけられて、骸は顔を上げた。彼女が少しだけ不服げに眉を上げてこちらを見ている。
「もう、聞いてなかったんですか」
「あ、・・・すみません」
「今日のお夕飯何がいいですかってお聞きしたんです。ラビオリも出来るし、パスタとかもありますよ。何か食べたいものはありますか?」
「いえ、凪の好きなものでいいですよ」
「・・・骸さん」
凪はちいさな溜め息をつくと、どこか含んだような、困ったような、そんな微笑みを浮かべて骸を見つめた。
「あなたはいつも、私の好きにって言ってくれますね」
「え・・・」
「私の好きなようにって。私の意見を否定しない」
彼女がゆっくりと椅子を立ち上がる。立ち上がった瞬間に、彼女は反射的な仕草のようにそっと腹部に手を遣った。
「それはあなたの優しさなんですよね。あなたが私を気遣ってくれてるんだって、分かっています」
ずきりと心が痛んだ。
そうだのだろうか。本当に自分はそう思っているのだろうか。
「でもね、骸さん。もう、いいんですよ。あなたが決めていいんですよ」
彼女が何かを促すように、自分に微笑みかける。
そうだ。心の中に浮かんだ言葉を打ち消すようにして、骸は顔を上げた。
二度目はない。彼女を傷つけて、彼を傷つけて、手に入れたものを捨てて、投げ出してはいけない。
あんなに傷ついたにもかかわらず、彼女は決して自分のそばを離れようとしなかった。
自分を心の底から許し、何もなかったかのように振る舞ってくれる彼女が大切だった。
もう裏切ることなど出来ない。
もう裏切ることなど、ない。

「・・・凪。今度の週末、旅行に行きませんか」
彼女は驚いたように目を瞠った。大きな瞳がくるくると表情を変えてこちらを見ている。
「行き先は君が決めていい。もう一度、ハネムーンをしましょう」
彼女の瞳がきらきらと輝いて、驚いたような面差しから満面の笑みがこぼれた。
「・・・はい!」
一年前のやり直しだ。
これで完全にすべてをやり直そうと思った。
これは自分のけじめだ。凪と、この子と、生きていくための。
「早速チケットを取りましょう。どこに行きたいですか?」
「そうですねー・・・」
しばらく逡巡してから、凪はああ、と声を上げた。
「日本が、いいなあ」
「日本?君が育った場所じゃないですか。せっかくアジアなら別の国にしたら?」
「ええ、でも行きたいんです。きっとたくさんのものが変わってる」
「日本、ですか」
「今はきっと新緑がきれいですよ」
「・・・そうですね。君がそう言うのならば」

遠い国のことを考えて、骸はそっと眼差しを伏せた。
彼女が育った国のことを。自分が彼と出会った国のことを。





ep.16