休暇前の空港はひどく賑わっていた。
幸せそうな家族連れ、腕を組む恋人たち、笑い合う人々。
そんな人々の中に紛れるように顔を伏せると、雲雀は黒縁の眼鏡を指でそっと押し上げた。
喧騒の中で自分がゆっくりと透明になっていくような気がしていた。
手に持つ小さなトランクは一泊分の荷物が入るだけで、ひどく軽い。その心許なさは逃亡者の自分には相応しかった。
小さなトランクをとん、と床に置く。そうして雲雀は大きな窓枠に腰掛けた。
そう、自分は逃げるのだ。
すべてを投げ捨てて、伸ばされた手を振り払って、たくさんの人を傷つけたまま、今自分はここから逃げ去ろうとしている。
卑怯だと罵られるだろう。見苦しいと詰られるだろう。さもしいと非難されるだろう。
それでも今の自分には、他の道を選ぶことは出来ないと思った。



トレンチコートのポケットの中で携帯が震えていた。あえて電源を切らないでいたのはまだどこかで期待していたからだ。
もしかしたら、と。
雲雀はゆっくりと息を吸って、ポケットから携帯を取り出した。けれどもその光る画面に表示されていたのは、見慣れた自分の上司の名前だった。
そっと携帯の画面を伏せて取ることも切ることもせずにいると、それは数度ちいさく震えた後で、諦めたようにひとりでに切れた。
残った画面には数度の「不在着信」の文字が表示されている。それらのコールはすべて上司からのものだった。
あの男からの連絡は、結局一度もなかった。
彼が掛けてくると信じていたわけではない。彼がそうしないであろうことは疾うに知っている。
けれどもそう言い訳をしながら待ち続けていた自分は、どれだけ浅ましいのだろう。
雲雀は溜め息をつくと、今度こそ携帯の電源を落とした。


空港の案内板のフラップが回転する。自分の乗る便を確認すると、雲雀はゆっくりと立ち上がった。
とりあえずヨーロッパを点々とするつもりだった。ボンゴレの追っ手を振り切るにはいくつもの空港を経由していく必要があった。それでも行き先は決まっていなかった。
ふと、あのお人よしの上司の顔が浮かんだ。
いつでも柔和な笑みを浮かべているあの人は、今どんな顔をしているのだろうか。すべてを見通す目を持ったあの人は、何かを気が付いただろうか。
彼には迷惑をかけてばかりいる。任務となれば手段を選ばず、自由気儘に動き回り、与えられた権限を越権していたかと思えば、こうして勝手に消息不明になる。
すまないと思っているけれども、それでも前からあの人は何かを感づいていたように思う。
人の前で骸と言葉を交わしたことなど殆どない。それでも随分前から、彼は何か言いたげに骸と自分を見ていた。
数年ぶりに骸と顔を合わせた会議があったあの日にも、凪と骸と三人で会話をしたあのパーティの日にも、凪から旅行の予定を聞いたあとで屋敷に戻ってきたあの日にも、ずっとあの人の視線を背中に感じていた。
責める眼差しでは決してなかった。ただひたすら悲しげな、困ったような眼差しだった。
そうやってあの人がこちらを見つめる視線が痛かった。
だから自分はずっと目を逸らして、知らない振りをしていた。
いつから気が付いていたのだろう。
三ヶ月前からだろうか。五年前かもしれない。
ああ、でも、多分、違う。
もう十年前からきっと、彼は気が付いていた。


ふと見つめた大きな窓ガラスの向こうで、飛行機が滑走路を走って離陸を始めていた。大きな機体が浮き上がって、真っ直ぐに上に向かう。それはゆっくりとその高度を増して、あっという間に舞い上がると、空を切って飛んでいった。
まるでどこか遠く、この場所から羽ばたこうするように、自由の地を求める鳥のように。
ああ、遠くまで来たんだ。引き返すことが出来ないところまで。
青空と銀の機体、そして一直線に描かれる白い雲のコントラストをぼんやりと見つめながら、雲雀はそっと眼差しを伏せた。

五年前の僕たちは真綿で首を絞められるような関係だった。
ゆっくりと自分も、相手をも殺してしまうような関係だった。
側に寄れば寄るほど、一緒にいたいと願うほど、苦しみばかりが増えていった。
それでも今の自分なら、その関係を手離すことはしなかったと思う。
若かった自分は、どこかで彼を試していた。この手を取ってくれると信じていた。どんなに苦しくとも、自分と一緒にいることを選んでくれると思っていた。
けれども彼は優しく笑って、言われるがままに自分の手をほどいた。
それでもこの思いは消えることはなかったけれど。
他の誰かをパートナーにしながら、他の誰かと寝ながら、この気持ちが少しずつ綯えいくのをじっと待っていた。
この燃えるような感情も、いつかはその炎をやつし、花を凋ませて、蕾のようになって朽ちるのだと思っていた。
けれども彼が結婚をしたのだと聞いたとき、そしてその相手が彼女であることを知ったとき、
自分の世界は暗闇になった。
保ってきた均衡は崩れていった。自分を支えていたものは一瞬にして奪われていった。
足元が無くなってしまった様な、目の前の景色がすべて崩壊していくような、そんな感覚に襲われて、ただ倒れないようにその場所に立ち尽くすことで精一杯だった。
その時に自分の心の奥に炎がゆっくりと灯っていくのを雲雀ははっきりと感じていた。
すべてを焼き尽くそうとする、暗い炎だった。


自分は本当は誰が憎くて、誰を傷つけたくて、誰に復讐したかったのだろう。
彼女だったのか、彼だったのか、それとも自分自身だったのか。
自分の中でもその感情はほどくことが出来ない。
ただ、今度こそ、この手を掴んでほしかった。
五年前に一度は離したこの手を、今度こそ彼が掴んでくれることをどこかで祈っていた。
追い詰められたときにすべてを捨てて自分の手を取ってくれるとどこかで信じていた。
それでもそのさもしい願いは叶うことはなかったけれど。

もう二度と、彼に会うことはないだろう。身勝手な理由だと知っていても、これ以上彼を想って生きていくことは苦しかった。会ってしまったら、今度こそ自分は自分でいられなくなることを知っていた。
だから彼と過ごした数年の記憶だけを抱いて生きていく。今にも溢れて零れそうな感情を器の中に押し込めて歩いていく。

ただ。
ただ、もしも。
もしも、いつまでも胸が痛いほどに彼を想う自分がいたら。
長い長い時が流れても彼のことを忘れられなかったら。
思い出にすることも出来ないほどに取り戻せないものがあったら。
もしもそうして長い時間が経ったとしたら、そのときには桜を見に行こうと思った。
彼と出会った国に、すべてが始まった場所に帰ろうと思った。
十年前に彼と見上げたあの淡い色をした花を見に行こうと、思った。


ふと、周りのざわめきが遠くなっていった。目の前に映っていた色鮮やかな景色がじわりと溶けていった。
喉の奥がひくりと震えて、ああ、と諦めにも似た溜め息を付くのと同時に、景色はあっという間に歪んで、溶けて、滲んでいった。
あたたかな水が濡れた瞳から零れ落ちる。それは確かな温度となって、頬を、手を、喉を伝っていく。
もう、堪えることは出来なかった。
ぽたぽたと音を立てて涙が床に落ちていく。喉の奥から感情が溢れてくる。
零れそうになる嗚咽を懸命に抑えて、雲雀は掌を唇に当てた。


もう何も残っていない。守るものも、守りたいものも、大切なものも。 それでも今、たった一つだけ確かだと言えることがある。
自分の中で確かだと信じられることがある。


自分は彼のことが好きだった。
理性が利かなくなって、すべてを壊しても奪ってしまいたいほど。
すべてを捨てて、何もかも見えなくなって、あんなにもたくさんの人を、彼自身を傷つけても構わないと思うほど。
誰よりも好きだった。
誰よりも、愛していた。



朝の光が差し込んでくる空港の片隅で、誰にも見られることなく、たった一人、雲雀は声を殺して泣いた。




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