「・・・あの、」
「謝ろうと思ってるなら、そんなことしなくていい」
「・・・」
「滑稽だろ。お前も、俺も」
彼はフェンスに手をかけて、どこかずっと遠くの向こう、空の上を見上げてそう呟いた。
この人と、こんな風に話す日が来るとは思ってもいなかった。少しだけ人の目が気になって、骸は他の部屋のバルコニーにちらりと目を遣った。それでも見渡した部屋はすべて、示し合わせたように窓が閉まっていた。
あたたかな日差しが広いバルコニーに降り注いでいる。飴色をした髪が太陽の光に透けて、きらきらと美しい金糸のように光っていた。ゆったりと長い腕を上に伸ばして伸びをする彼を見ながら、骸は意を決して問いかけた。
「あの・・・彼がどこに行ったか、心当たりはないですか」
「さーなあ」
それはおかしなくらいのんびりとした口調だった。ざあ、と心地好い風が自分と彼の間を擦り抜けていく。それは自分たちの間にある不思議に透明なわだかまりまでも攫おうとしているように思えて、骸は思わず風の行方を目で追いかけた。
ああ、もう、初夏なのだ。湿気を含んだ緑のにおいのする風に木々が揺れている。自分と同じように、彼も風を見つめていた。見つめながら、彼は取り出した煙草に火をつけた。
「俺には心当たりなんかねーけど」
シュ、と軽い音がして、フィルターがぱちぱちと細かく燃える音がした。
「ただ、あいつがもう見つからないことだけは、分かる」
ふう、と白い煙が吐き出される。別れを覚悟した言葉だと思えないほどに、軽く、あっさりとした口調だった。自分の方を向くことをせずに、彼はまた遠く、空の向こうを見つめた。
「あいつはずっと覚悟をしてたんだよ。お前を追い掛けつづけるのも、気まぐれで繋がれた手を振りほどかれるのにも、もう耐え切れなくなったんだ」
彼の吐き出した白い煙が風に流されて、それはふわりと柔らかな空気に溶けて、目を凝らすよりも早く澄んだ空に消えていった。皮肉なほどに突き抜ける色をした青い空には、煙よりも濃い色をした飛行機雲の白い線が、くっきりと直線を描いて空を横切っていた。
「・・・すみません」
自分の言葉を聞くと、彼はふう、ともう一度煙を吐き出した後、何故だかふわりと微笑んだ。柔らかそうな金色の髪が風に揺れて、さらりと彼の顔にかかる。
「謝るなって言ったろ」
穏やかな笑みを浮かべるのは、彼の生まれ持った性質なのだろう。それは彼が自分のことを許していないことと矛盾しない。骸はゆっくりと顔を上げて、フェンスに手をかけた。
「それでも、伝わってきたんです」
少しだけ続ける言葉を迷った。こんな台詞を口にすることは許されるのだろうかという思いが瞬間過ぎって、けれどもすぐに思い直した。自分が悔いなければならないことは、彼に対して償わなければならないことは、本当に許されなかったことは、こんな小さなことではないのだから。
「・・・貴方がどれだけ彼のことを愛しているか」
ディーノは一瞬面食らったような顔をして、それからふう、と何度目か分からない白い息を吐いた。それが本当に煙草の煙を吐き出したのか、それとも溜め息だったのか、骸には分からなかった。短くなった煙草をおもむろにフェンスの端でもみ消して、一呼吸を置いてから、彼は呟いた。
「・・・ああ、そうだな」
こちらを向くことをしないまま、彼はふと甘い栗色をした目を伏せた。薄い色をした睫毛が、彼の目に浮かぶ表情を瞬間、隠した。
「お前よりもずっと、俺は恭弥を好きだったよ」
骸、と彼が小さく自分の名前を呼ぶ。顔を上げてその瞳を見つめることを瞬間躊躇った。それでも伏せそうになる眼差しを強いて持ち上げて、骸はディーノに向き合った。ディーノはゆっくりと二本目の煙草を取り出して、けれどもそれに火をつけることをせずに骸を見つめた。
「本当は、お前のことを殴りたい。問い詰めて、詰って、殴りつけて、罵って、唾を吐きかけてやりたい。お前は選べただろう。こんなところに来るまでに選べただろう。ここまで恭弥を傷付けることも、凪を傷付けることもないやり方が、あったはずだろう」
それはとても静かな声だった。言葉とは裏腹に、そこには激しさも、怒りも、憎しみも、ない。けれどもその声が静かだったからこそ、淡々と紡がれる言葉はひどく胸を締め付けた。
何も言うことができない自分を彼は責めることをせず、ただまた煙草にカチリと火をつけた。こんなに煙草を吸う人だっただろうか。そう思ったけれど、思い出すことはできなかった。
「ああ、でも、もう」
そう呟かれた声は、それは風の囁きを持って、消えていった。
「こんな正論なんて、無意味なんだ」
「・・・どうして、」
愚かしいと思いながらも、聞かずにはいられなかった。彼は煙草を持ったままフェンスに肘をついて、一瞬、両手で顔を覆って、ぽつりと呟いた。
「優柔不断で、流されてばかりで、手をひかれるままで、責任を逃れて、自分を愛してくれる人を愛して。骸、お前は、卑怯だよ」
俺と同じだ。そういう声が聞こえたのは自分の聞き間違いかもしれない。顔を上げることをせずに、彼は目を伏せたまま体だけをこちらに向けた。
「それでも、そんなお前が、恭弥は好きだった」
どくん、と心臓が大きく鳴るのが分かった。鋭い刃で貫かれたような気がした。まさか、この人は。
「もしかして貴方はずっと、」
「あいつは本当にお前が好きだったよ。ひたむきなくらいに一途に、ずっとお前を見てた。ずっとお前を追い掛けてた。・・・俺はずっとずっと、そんなあいつを見てきた」
口が利けないでいる自分に向かって、彼は眼差しを持ち上げてふわりと微笑を浮かべた。彼の指に挟まれている煙草は、一口もつけられることのないままゆっくりとその長さを短くしていく。ちり、と赤い炎が燃えて、また一欠けら、灰が落ちた。
「俺はお前が怖かった。お前がいなくなればって何度も思った。お前と恭弥がもう一度出会ったら、・・・もう、終わりだと思ってたから」
こつり、と革靴がコンクリートの床を蹴る。彼が一歩、自分のほうに歩を詰めて、骸は思わず彼の眼差しから目を伏せた。
「ひとつだけ、俺の我儘を聞いて欲しい」
今度こそ顔を上げることができなかった。この人の前で自分が何を言うことが出来るだろう。こんなにも彼のことを愛していた人の前で。
「恭弥を探さないでやってくれ」
はっきりとした口調だった。彼の話すイタリア語のその響きは、日本語のそれよりももう少し明瞭に耳に届いた。一口吸うことがなかった煙草を手から落として、彼は靴でそれを揉み消した。
「お前はあいつが望むものを持っていた。でもお前は、あいつの手を振りほどいた。だからあいつは、いなくなった」
靴先が自分を向く。こつり、とまた一歩分、歩が詰まる。
「分かるだろう、どんな気持ちであいつがお前のそばにいたか。どんな気持ちであいつが姿を消したか。なあ、骸」
また靴の音がする。もう、自分と彼との間に距離は無かった。骸、と繰り返し名前を呼ばれる。その音があまりにも必死に何かを希うような音をしていたから、顔を上げないでいることが出来なかった。
真っ直ぐに目を合わせた彼の顔からは笑みが消えていた。それはいつもの彼からは想像できないような、今まで見たこともないような、ひどく真剣な、苦しげな眼差しだった。
「頼む。もう、苦しめないで欲しい。あいつを、・・・俺が、誰よりも愛した人を」
どれだけ自分は誰かを傷つけたら気がすむのだろう。彼を傷つけて、凪を傷つけて、そして彼の恋人までを傷つけて。それでも、いまだにこの気持ちを捨てることが出来ない自分は。
「・・・貴方に、こんなことを言う図々しさは分かってます。それでも、僕は、彼を、」
「骸」
ぴしゃりと自分の言葉を遮って、彼ははっきりと続けた。
「お前が何かを捨てられなくて、それでもまだ恭弥を大事だと思うなら」


「恭弥のことは忘れてほしい」


飛行機が飛び立つ音がする。真っ青な空を、にび色に光る機体が横切っていく。祖国を離れて、全てを捨てて、どこかへと旅立つ鳥のように。



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