もう君はここには来ない。
彼はそう言った。はっきりとした口調で、空虚な瞳で自分を見つめて。
そうではないと必死で否定しようとした自分は今、彼を置いて家を飛び出した。

雨がひどい。水飛沫が視界を暈して、瞬きをするたびに水が目に入る。距離にすれば少しの道を走るのももどかしく、骸は急いで大通りに出てタクシーを拾った。
愚かしいほどに、彼が示唆していたとおりだった。
自分を信じていた彼女を裏切って、同時に彼自身を一番酷い方法で裏切って、自分は保身に走ったのだ。
彼がどんな言葉を望んでいたのか、自分は知っていた。分かっていたのだ。
あの時、あの部屋に残れるだけの覚悟があればよかった。
出て行った彼女を追わずに、自分が手にしてきたもの全てを投げ打って、彼の側にいることを選べばよかった。
けれども、自分にはそれが出来なかった。そんな覚悟など、なかったのだ。
彼女を裏切りながら、ずるずると彼と関係を続けている。いつかはどちらかに終止符を打たなければならない関係なのだと思いながら、それは遠い未来のことだと目を背けてきた。
行くところまで行けば、未来の自分が何らかの結論を出すのだと思っていた。終わりを考えることが怖かった。
今の自分は、どちらも手放すことが出来ないことを知っていたから。
それでも彼は違ったのだ。ずっと前、もしかしたらこの関係を始めたときからこうなることを知って覚悟をしてきたはずなのに。
そして自分は彼の覚悟に気が付けたはずなのに。



もう少しで家に着こうとしたときに、雨の中に傘も差さずに佇む人影が見えた。
見覚えのある空色のワンピースは水を含んで色を変え、肩よりも長い漆黒の長い髪は首筋に張り付いていた。
それは間違いなく、彼女だった。
急いでタクシーを降りて、骸はその人影を追った。降り注ぐ雨の音の中で、声を張り上げた。
「凪!」
思わず後ろから肩を掴んだ自分の手を振り払うこともなく、彼女はその力に従ってゆっくりと後ろを振り向いた。黒目がちの大きな瞳がこちらを向いていく。
いつもきらきらと輝いているその瞳は光を失って、ほの暗い曇天に染まったような色をしていた。その瞳に既視感を覚えて、そしてようやく気が付いた。
その瞳は、自分を振り向いたあの時の彼の瞳だった。
表情を消したまま、凪がそっと唇を開いたのが見えた。
轟音の中で、妙にはっきりとした声が聞こえた。
「骸さん。さっきね、私雲雀さんの家にお届けものをしたんです」
「凪、聞いてください、」
「ベルを鳴らしたんです。でも、出ていらっしゃらなくて、お部屋の中に入ったんです」
「お願いです、聞いてください、」
「骸さん、私そこの寝室で何を見たと思いますか?」
「すみません、僕は、」
「そこにはね、あなたと雲雀さんがいたんです」
それを言い終わらないうちに、彼女は自分の言葉に耐え切れなくなったようにくずおれた。反射で支えようとした自分の手をすり抜けて、細い体が雨の中に沈んでいく。
ばしゃり、と水溜りを跳ね上げて、彼女の空色をしたワンピースが淡く濁っていった。
空から降り注ぐ雨が容赦なく彼女を濡らしていく。
冷たい雨から彼女を守る術を知らずに、骸はただ同じように膝をついて、凪と同じ目線に屈みこむことしか出来なかった。
「凪・・・」
目線を伏せた彼女の黒い髪を、長い睫毛を、雨が浸していく。その瞳から零れているのが涙なのか、雨なのか、自分には分からなかった。
雨の音に消え入りそうな世界の中で、彼女は小さく呟いた。
「お願いです・・・!」
濡れた視線を持ち上げて、彼女は自分の腕を掴んで真っ直ぐにこちらを見つめた。
その黒い瞳は雨の中でも溢れそうなほどに水を湛えていた。限界を超えた透明な水が頬を伝って、雨に紛れて消えていく。
ああ、やっぱり涙だったのだ。冷たい手の温度を感じながら、そんなことを思った。
飛沫に消えながら、それでも彼女の二つの瞳からはとどまることをしらずにはらはらと温かい水が零れ落ちた。
「貴方が誰を好きでも構いません・・・!それでも、私には貴方しかいないんです・・・!だから、お願い、だから」
彼女の顔が苦しげに歪んでいく。縋りつくように自分の腕を両手で強く掴んで、彼女は搾り出すような声で言った。
「貴方の側にいさせてください・・・!」


自分に縋るその手を振り払うことがどうして出来ただろう。
降りしきる雨の中で子供のように座り込んだまま、ただひたすらに彼女は自分の胸で泣きじゃくっていた。
彼女の肩を抱くことも、その涙を止めてあげることも、降りしきる雨から守ることすらもできずに、自分はただただ愚かしく、雨に打たれたまま縋り付く彼女を見つめていた。


あの時彼女を追いかけたのが正しかったのか、自分には未だに分からない。
その手の中にあるものが空虚なわけではない。守り抜いたものもあった。
けれど、腕の中に残ったものを見つめようとしても、零れ落ちたものが多すぎて途方に暮れることがある。
もう一度時間を戻せたら。
そうしたら、自分はどちらの道を選んだのだろう。


ep.12