「もう、無理なんじゃないかと思うんだ」
雲雀は長い睫毛を伏せて、静かにそう言った。部屋の中に電気は点いておらず、ブラインドから零れてくる月の光だけが、床に座る彼をぼんやりと彼を浮かび上がらせていた。
「君を好きでいることに、少しだけ、疲れた」
「・・・・・・僕も、そう思っていました」
薄暗い部屋の中で身じろぎもせず、骸はそう返した。別れの言葉を聴いているとは思えないほどに穏やかで、落ち着いている自分がいた。ずっとどこかでこの恋の終わりを感じてきたからかもしれない。
好きだと思う気持ちは変わらなくても、すれ違う苦しさの方が重くなっていったのはいつからだろう。自分が苦しいだけならば耐えることはできた。けれども一緒にいればいるほどに彼を苦しくしてしまうなら、自由にしてあげたいと思った。
「さよなら、だね」
彼はゆっくりと床から立ち上がると、骸に右手を差し出した。彼は出逢ったときよりもずっと背が伸びて、幼さを残していた頬は骨ばって見えた。ああ、大人になったんだな。そんなことを思った。
差し出された右手をそっと取ると、彼は僅かに微笑んだ。
五年間一緒に過ごした彼と、別れた日のことだった。


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「骸さん」
自分の名前を呼ぶ声が聞こえて、骸はそっと目蓋を開いた。ゆっくりと開いたところから光が目を差して、それと同時に自分の名前を呼んだ人の顔が映った。
「おはようございます」
「な、ぎ・・・」
「今日はちょっとお寝坊ですよ」
凪はそう言ってにっこり笑うと、薄手のレースのカーテンを開いた。まだ判然としない混乱した頭に朝の光が流れ込んでくる。ぼんやりと白い天井を見上げて逡巡し、そうして骸はようやく自分が夢を見ていたことを知った。
それは夢ではなかった。確かにそこにあった。けれどもそれ夢のように遠い遠い昔の記憶だった。心の奥に閉じ込めたはずの記憶だった。彼女と生きていくことを決めたときに。
窓を開けている彼女を、後ろからそっと抱き寄せる。シャンプーの香りの残る細い髪に顔を埋めながら、骸はそっと目蓋を閉じた。
「骸さん・・・?」
「夢を、見たんです。昔の夢を―」
凪は不思議そうに、けれども何も訊かずにそっと骸の手に自分の手を重ねた。


あの日から日を待たずして、彼は日本支部へと転属になった。そんな事実があったことも、出発の日がこんなに差し迫っていることも、骸は一切知らなかった。以来、彼と顔を合わせることはほとんどない。もしかしたら彼はそれを見越して別れ話を切り出したのかもしれないと思う。距離すらも遠くなってこれ以上関係を壊さないように。それも今となっては考えても詮無いことだった。
もう一年も前に、自分は凪と結婚したのだから。
凪と関係を結ぶようになったのは、彼と別れてから一年ほどしてからだったと思う。
空虚に穴の開いた心を持て余していた自分を、彼女はなんとか励まそうとしてくれた。
自分を気にかけてくれ、いつも変わらない笑顔を向けてくれる。そんな彼女の優しさに触れるたびに、傷が少しずつ癒えていくような気がした。
だから凪と付き合いだすまでに時間はかからなかった。そして三年ほどを一緒に過ごした後、その延長線上で結婚するのは自然の流れだった。
彼女は絵に描いたような幸せな生活を、そっくりそのまま自分にくれた。
自分を起こしに来る優しい妻、いつも賑やかな音がしているキッチン、リビングに広がる淹れたてのコーヒーの香り、きれいに掃除の行き届いた部屋。
出掛けるときには彼女にキスをして、時々は一緒に買い物にいって似合う服を選んであげて、手を繋いで帰ってくる。
それは幸せな生活だった。満たされた生活だった。
これ以上望むものなどないほどに。

この生活を壊したくはない。凪を大切にして生きていきたい。
だから骸は自分の心の奥に五年前の記憶をそっと埋めた。埋めたはずだった。
それでもあんな夢を見たのは、きっと昨日久しぶりに彼の噂を聞いたからだろう。
キャバッローネとの会合に行かせた部下は自分に報告書を提出して、口上で簡素な報告してから、思い出したようにああ、と言った。
そういえばキャバッローネのボスのパートナーはボンゴレの雲の守護者みたいですね―
何の意図もないであろうその言葉に、骸は咄嗟に反応することが出来なかった。
もう五年も経っているのだ。彼に誰か相手がいるであろうことはぼんやりと推測できていた。
それでも、本当に、彼が他の相手といた、なんて。
傍目から見てもあまりに動揺していた骸を見て、部下も驚いたらしい。
何か粗相をしたのかと慌てる部下に下がっていい旨だけを告げ、半ば部屋から追い出すように扉を閉めた。
閉めた扉の前で、骸はしばらく動くことが出来なかった。

身勝手なことは百も承知だった。自分こそ彼との関係を切って凪と結婚したのだ。そう言われれば返す言葉もない。けれども心の奥からふつふつと湧き上がる嫉妬にも似た感情を消すことは出来なかった。
本当は知っていたのだ。彼のことを忘れた日など一日もない。五年前に閉じ込めた感情はあの日のままで残っている。それを今日まで心の奥に閉じ込めて、押し殺してきたのだ。
ほんの少しの感情の揺れで溢れてしまうものだということを知っていたから。
扉を背にしたままで、骸は顔を覆った。大丈夫、大丈夫だ。溢れてくる感情に必死で蓋をしながら、幾度もそう繰り返した。
一時の感情だ。もう彼と顔を合わせることなどないのだ。明日になればきっとこんな気持ちも落ち着いている。そうしたら彼女とまた一緒に幸せな日々を送っていける。
そう思っていた、はずだった。



ep.2