※藤内視点





それは暑い初夏の日のこと、綾部先輩の掘った塹壕を二人で埋めていたときだった。
その塹壕に用具委員から文句が来たまではいつも通りだったけれども、食満先輩が乗り込んできたときに綾部先輩と一緒にいたのが運の尽きだったらしい。
なぜか連帯責任を主張する綾部先輩によって自分まで巻き込まれて、今こうして一緒に塹壕を埋めている。
当の本人は埋めるどころか、口笛を吹きながら先ほどから塹壕に入ったまま出てこない。
暗い穴の中で姿の見えない先輩に向けて、藤内は上から声をかけた。
「先輩、まさか穴を深くしてるんじゃないでしょうね」
「ええ、掘ってないよお」
そう飄々と言うその声は、心なしか先ほどよりも奥から聞こえてくる気がする。
「掘ってるじゃないですか・・・」
勘弁してください、そう言いながらも諦めて、ふと何気なく作法の部屋の方に視線をやったときだった。
開いた障子の先に、ふと女物の着物に手を通している作法委員長が見えた。
きれいな長い黒髪がおろされて、美しい着物に囲まれている。男であるとは分かっていても、その姿はまるで美しい女性だった。
何度も彼が着替えているところなど見たこともあるのだけれど、それでも不意打ちで見せられると一瞬どきりとした。ばつが悪くなってそっと目を伏せようとしたとき、その人の肩に見えたものに、藤内は思わずもう一度顔を上げた。
「・・・あれ」
気がつくと声が漏れていた。
ぱちりと瞬きをして、もう一度目を凝らす。そのときにはもうその人は着物を羽織っていて、既に自分が見たものは見えなくなっていた。
その人の肩に見えたものは、あまりにその人に似つかわしくなかった。
彼が服を脱いだときに一瞬だけ見えた、右肩から背中にかけて大きく流れる赤い一本の傷。
それは乾いた色をしていたから新しいものではないことが分かった。それでもそれは依然として白い肌に生々しさを刻んでいた。
「どうした藤内」
埋めていたのか掘っていたのか分からない塹壕からようやく顔を出して、綾部先輩がこちらを向く。
「あの」
そのときに口に出してしまったのは、自分の不注意だったのだ。
今まで気がつかなかったのが不思議だと思ったけれど、今なら分かる。
気がつかなかったのではなくて、彼が見えないように気を使っていたのだと。
「立花先輩の肩の傷、ご存知でしたか」
自分の問いかけを聞いた瞬間に、綾部先輩の表情が変わったのが分かった。
薄い色をした目が大きく瞠られて、無表情に見えるその面差しにはわずかに感情が浮かんでいた。
それは驚きにも、困惑にも、まったく別のものにも見えた。
「・・・見たのかい」
静かな声だった。思いがけない答えに、藤内は思わず首を振った。
「あ・・・いえ、今、あの、偶然先輩が着替えてるのが見えて、それで、」
「そう」
彼は一言だけそう言うと、おもむろに塹壕から出てきた。白い両手についた土をぱんぱんと音を立てて払うと、ざくりと鋤を土に突き立てて手を離す。
そのまま彼は何も言わずに、作法室の方を、立花先輩を見つめた。
思わず不安になって、藤内はかける言葉に詰まった。先輩の態度は素っ気無いというよりも、何か触れてはならないものに触れてしまったような気がした。
自分はなにを言ってしまったのだろうか。それでも、続ける言葉に詰まった自分を見ることを綾部先輩はしなかった。そのかわり、真っ直ぐに視線を作法室に向けながら、先輩はちいさな息を吐いた。

「あの傷はね、あの人が私をかばったときの傷だよ」

ぽつりとつぶやかれた言葉に思わず顔を上げた。真っ直ぐに見開かれた先輩の淡い瞳には、不思議な色が浮かんでいた。
「私が一年の頃に、四年生の先輩に生意気だと苛められたことがあってね。私の掘った穴に落ちてしまったのが、気に食わなかったんだろうけど」
一年生の掘った塹壕に落ちるなんて恥ずかしいだろう。そういって、彼は地面に突き立てた鋤に両手をついて寄りかかった。
「数人に囲まれて殴られそうになっていたときにね、偶然通りかかったあの人が私の前に出て、見も知らない私を助けてくれた」


―やめてください先輩方!
―何だよ、お前。三年か?
―お言葉ですが、私には先輩方が理不尽にこの子に当たっているように思えます・・・!
―ああ、なんだと?生意気言ってんじゃねーよ


「あの人は優秀だったから、きっとやり返せたんだろうなあ」
ぼんやりと思い返すようにそう言って、彼は鋤にのせた両手に顎を載せた。
「忍者の世界が縦割りじゃなければね。先輩に楯突くことができなくて、それを言うだけで精一杯だった」
だからあの人は、私の代わりに苦内で斬りつけられた。
ふうと息を吐いて、彼は吐き出すようにそう言った。
「そんなことが・・・」
「うん」
ふと顔を上げて、藤内は彼が見ている方と同じ方を向いた。彼はもう帯を締め終わって、鏡台の前で化粧をしていた。細い薬指が紅を掬って、傷よりもずっと真っ赤な色が、鮮やかに唇に引かれた。
「あの人の傷は私が付けた。負う必要のなかった傷だった。それでもあの人は何の躊躇いもなく私を守ってくれた」
淡々と話す彼をふと見上げて、息が詰まるような気がした。
真っ直ぐにその人を見つめる綾部先輩の目には何かが映っていた。
憧憬や、尊敬や、敬慕なんて言う言葉では言い表せない。とても眩しい色をしたそれは、忠誠という言葉に似ているような気がした。
「だからそのときに決めたんだ。私はこの人についていこうって」
ざああとぬるい風が通り抜けていく。土のにおいが、熱された地面の温度が舞い上がる。
「ねえ、藤内」
名前を呼ばれて先輩の方を向く。それでもやはり先輩は自分のことを見ることをせずに、遠くを、遠くにいるあの人を見ていた。
「私はあの人が望むならなんだってするよ。あの人のためならどんなものでも犠牲にするよ。たとえあの人が、私に」



その先の言葉が聞こえなかったのは、唐突に彼を呼ぶ声が聞こえたからだった。
「喜八郎!」
いつの間にか立花先輩は支度をすっかり終えていたらしい。
今その人は顔を顰めてこちらを見つめながら、障子のそばに佇んでいた。
艶やかな着物を纏い、美しく化粧をしたその人はどう見たって絶世の美女だ。
それでもその美しさに似つかわしくない低い男の声で、その人は腕を組みながらこちらをじろりと睨んだ。
「まあたさぼっているな」
「さぼってませーん、藤内と話してただけですう」
一瞬のうちに、彼は今までの口調をころりと変えた。地面に突き立てた鋤に寄りかかって、唇を突き出しながら語尾を伸ばす先輩は、いつもの綾部先輩だった。先ほどまで真剣な表情をしていたのが嘘のようだった。
いつも通りの飄々とした口調で、読めない無表情で、そう言ってのける先輩をぽかんとして見つめていると、立花先輩は自分をちらりと見て、そうしてもう一度綾部先輩を見つめて、大きなため息をついた。
「・・・まったく」
それでも気を取り直したように着物の襟を正して長い髪を背中に払うと、立花先輩は咳払いを一つしたあとに続けた。
「私は今から実習だ。帰りは多分明日の夕刻頃になると思う」
縁側から白い足袋を履いた足がおろされて、草履をつっかける。長い杖を手に取って、立花先輩はこちらを、綾部先輩を、真っ直ぐに向いた。
「私が帰るまで頼んだぞ、喜八郎」



思わず、あ、と音を零しそうになった。
その言葉を聴いた瞬間に、ふわりと綾部先輩の表情が変わったのがはっきりと、見えた。
先ほど先輩の目に浮かんでいた眩しいものが、同じ色になって映り込み、視線の先のその人にはっきりと向けられていた。
すうと背筋を伸ばして、彼は通る声で答えた。


「はい、先輩」


端から見れば気がつかないだろう。自分も知らなければ見過ごしていただろう。
それは綾部先輩から立花先輩へとはっきりと向けられる、揺らぐことのない深い忠誠だった。
気がついてはいけなかったのかもしれない。覗くべきではなかったのかもしれない。それは二人だけの深い結びつきだったのだ。

顔を上げることができなくなって、藤内はおもむろに視線を下げた。
唐突に顔を背けた自分に、不思議そうに上級生二人が自分の名を呼ぶ。
それでも、お帰りをお待ちしています、とだけ言うのが精一杯だった。
どぎまぎとした感情まで埋めてしまうように、藤内はまた鋤を手に取って、延々と続く作業に戻るために地面を向いた。





その人たちについて
02/03/2010



どうして人になつかなそうな綾部が仙蔵にはべったりなのかなあと思ってたんですけど、その裏にこういう出来事があったらいいなっていう・・・
綾部の仙蔵への忠誠心に夢をみています