「ここにいたのか、喜八郎」
「・・・先ぱいですか」
自分の真後ろから掛けられた声にそう応じながら、彼は振り返ることをしなかった。 それは可笑しな問いかけだった。彼は自分の声など、疾うに聞き覚えているはずだったから。
それでもそれを自分で確かめることをせずに、彼は自分に背を向けたまま、穴を掘る手を休めなかった。
ざくり、と鋤が地面に差し込まれる。よく磨かれた鋤が振り上げられて、土がぱっと空に放り投げられる。いつもと同じ、光景だった。
それでも返答をしなかった自分に、彼はもう一度同じ質問を繰り返した。
「立花、仙蔵先ぱいですか」
「・・・そうだよ」
ああ、そうでしたか。それは溜め息のような声だった。ともすれば聞き逃してしまいそうなほど透明な音で呟かれたそれは、僅かに自分の耳に届いて、それからあっという間に空へ溶けていった。
「たった今、戻った」
「おかえりなさい」
こちらを向かない彼の表情は良く見えなかったけれど、鋤を掴んでいる真っ白な右手は忙しなく動いている。
まったく同じ動作で、まったく同じリズムで、鋤は地面に差し込まれ、土は空に舞う。そして穴はゆっくりとその深さを増して行く。
単調な動作を、彼は一心不乱に繰り返していた。
「先ほど藤内に会ったよ」
「そうですか」
「私がいない間、お前がよくやってくれたのだと聞いた」
「先輩に頼まれたことですから」
「私がいなくて不安がるあの子達に一晩中付いていてあげたこともあったそうだな」
「・・・私だけが、先輩が何処に行ったのか知っていましたから」
淡々とした声だった。ふわふわと浮かんでいるような声だった。けれどもその掴み処のない声から感情を読み取ることが出来るようになったのはいつからだろう。
ざくり、とまた鋤が差し込まれる。彼の足はもう半分ほど土の中に埋まっていた。
「お前は私の自慢の後輩だ」
土が宙に舞う。小さな手が鋤を振り上げて、それは重力のままに地面にささる。
「ありがとう、喜八郎」
ざくり。
同じ動作を繰り返していた手は、唐突にその動きを止めた。
力を込めて鋤を掴んでいた手が、ゆっくりと緩んでいく。
彼がいつも大事に抱えていた鋤は、彼の手から音を立てて地面に落ちた。
「せんぱい」
ずっと鋤を握っていた白い手から力が抜けて、垂れ下がる。
泥だらけの両手は豆が潰れ、うっすらと血が滲んでいた。
ずっと鋤を握っていたのだろうか。いつからずっとこんな場所にいたのだろうか。
まるで何かを紛らすように、目を背けるように、ひたすらに、下だけを向いて。
「私は、もう」
ゆるゆると不安定な声がさ迷って、行き場をなくして消えていく。彼はこちらを向かないまま、ぎゅうと小さな手を拳にして、指が白くなるほどに握り締めた。
「あなたが帰ってこないかもしれないと思っていました」
冷たい風が彼の髪を掬い上げる。色素の薄い髪が音を立てて揺れて、その肩越しに幼さを残した頬が見えた。
「もうあなたに会えなくなってしまうのかと思ったら、」
「・・・喜八郎」
「すごくこわかった」
彼はゆっくりとこちらを振り向いた。飴玉のような瞳が自分を見つめたかと思うと、その丸い目にみるみると水が溜まっていった。
それは瞬く間に限界を超え、みるみるうちに大粒の涙となって零れ落ちていった。
「せんぱい」
ぼろぼろと頬を伝って溢れてくる涙を拭うこともせずに、彼は自分の名前を呼んだ。端整な顔がぐちゃぐちゃに歪んでいく。
「せんぱい、せんぱい」
喜八郎、そう彼の名を呼ぶよりも早く、彼は自分に向かって駆け出していた。
全身でぶつかってくる彼の小さな体を抱きとめる。
彼は何かを確かめるように細い腕をきつく自分に回して、彼は自分の胸に顔を埋めた。まるで子供のように、声を上げて、顔を歪めて、嗚咽を漏らして、幾度も自分の名前を呼びながら、彼は泣いた。
本当は泣きたかったのだろう。自分の任務がどんなものであるのかを知っていた彼が一番不安だったのだろう。それでも後輩を抱きしめて、笑って、励ましていたのだろう。
大丈夫だと。自分が帰ってくると言いきかせて。
「・・・よくやったね、喜八郎」
大声でしゃくりあげながら泣き続ける彼をきつく抱きしめた。その肩が震えているのを宥めるように、自分がここにいることを証明するように。
「いやだ、私は、」
自分の口元に当たる細い髪からは、僅かに土のにおいがした。
嗚咽混じりに声を上げて泣きながら、彼は自分の胸に顔を埋めたまま、ぎゅうとその手で自分の服を掴んだ。
「あなたがいなくなったら、いやだ」
本当はそんなことを言ってはならないというべきだったのだろう。
忍として生きていくのに生を願ってはならないと教えるべきだったのだろう。
生きることを約束することができないことは疾うに分かっていたのに。
「・・・ああ」
それでも、どうしてこの子にそう告げることが出来るだろう。


「戻ってくるよ」


冷たい空気の中に自分の吐き出した息が白くひらめいて、溶けていく。泥の絡まるその髪を宥めるように梳いてやりながら、仙蔵はそっと目を閉じた。
どんなに足掻いても、どんなに逃げても、そのときはいずれ来る。
全てが自分から奪い去られる日が、この学園に戻ってこられなくなる日が、この子が自分のために違う涙を流す日が、遠くない未来にあることを知っている。
だからそれまではせめて、この肩を抱いてあげられる自分でありたかった。




君に溶けてなくなりたかった
1/14/2010