※文仙前提仙綾仙








その人の膝が好きだった。だから座ってみたくなった。
その人の爪が好きだった。だから触ってみたくなった。
その人の髪が好きだった。
でもそれだけは、遠くから眺めていた。


きちんと揃えられた膝の上に頭を預けて微睡みながら、そういえばそんなことを思ったのだったっけなあ、と綾部は思い出した。
作法室の白い障子はぴたりと閉められているのに、部屋は春のようにあたたかい。
小春日和の日差しは障子の薄い紙をとおして、この清廉な部屋に日だまりをつくっていた。
静かな部屋にはほとんど音はなく、筆を紙に滑らせる音だけが時たまわずかに聞こえてくる。
自分はなにをすることもなく、その人の膝に無作法に横たわっていた。
そして自分に膝を貸すその人はそんな自分を気にする様子もなく、ぴんと背筋を伸ばして書き物をしていた。
こんな心地好い怠惰な時間を、日だまりの中でもう一時間ほど続けている。
筆を握っているためにわずかに揺れる右腕の袖が、先程から横たわる自分の髪をわずかに掠っているのが好きだった。
今、ここには自分と、自分に膝を貸すこの人しかいなかった。こんなことをこの人がゆるすのは、他に誰もいないからだ。
下級生がいるときには、この人は自分だけが甘えることをゆるさない。



平等に甘い人ですこと、と心の中だけで呟いて、膝の上で大きく口を開けてあくびをすると、筆を握る右袖の動きが止まった。
おや、と思った直後、上からその人の声がした。
「喜八郎、お前私の膝の上で寝るのか」
「ねむくなったらねます」
「お前なあ・・・」
自分を覗きこんだ拍子に、さらりと濡羽色の長い髪が揺れる。あ、と思ったときには、漆黒に艶めく長い一房がその人の肩を滑り落ちて、ふわりと自分の肩に触れた。
百合のように清潔な香りがはじけて、周りの色が変わる。わあ、と思いながらそれを眺めているうちに、その人は自分の行動に首を傾げると、諦めたように筆を握り直した。
「・・・涎は垂らすなよ」
「はあい」
生ぬるい返事を返すと、ふうと困ったように吐かれたため息が耳に届いた。
後輩に甘いこの人のこと、咎められることはないから気にはしない。それよりも日差しの眩しさに焦らされて、綾部はまた薄くまぶたを閉じた。
細い視界の中で、光を受けてなお強い黒をした髪が、細い背に流れ、肩を滑り、きらめいていた。
真っ直ぐで、漆黒の、しなやかで柔らかな長い髪。それは自分の髪とまったく正反対だった。ふわふわと癖のある薄い色をした自分の髪は嫌いではなかったけれど、それでも宝石のような漆黒の髪は素直にきれいだと思った。
その髪に触ってみたい。指を絡めてみたいし、口づけてみたい。そうずっと思いつづけている。
それでも、自分は手を伸ばさない。
他の何をゆるされても、この人の髪に触れてはいけないと、どこかで知っていた。


「私の髪がどうかしたか」
筆を走らせる音が止まったと思うと、穏やかな声が落ちてきた。眼差しを上げると、その人が不思議そうにこちらを見ていた。
「いえ・・・べつに、」
日だまりの中で、そしてその人の膝の上でもう一度あくびをしながら、小さく言った。
「ただ、先ぱいの髪は宝石みたいだなあと思ったんです」
一瞬、きょとんとしたような表情がつくられる。そうしてその人はその綺麗な顔を崩して、面白そうに笑った。
「お前、たまに私の髪を見ていたのはそういうことだったのか」
答えなかったのは、そうだったのか思い出せなかったからだ。もしかしたら髪を見ていたのかもしれないし、耳を見ていたのかもしれないし、横顔を見ていたのかもしれない。
答えない自分に何を思ったか、その人は自分をあやすようにその細い指で自分の前髪に触れた。
「お前の髪も綺麗だろう」
いつもこうしてこの人は自分を可愛がる。
癖のある柔らかな髪に指を絡めて、縺れを解きながら、まるで猫を掻き抱くような仕草で自分の髪を撫ぜる。今までにも何度となく、その人はそうやって自分の髪を撫ぜてくれていた。
与えられる指を黙って享受しながら、自分がほんとうに見ていたのは濡羽色の髪だった。
それは今、その人が屈みこんだせいで、自分の肩の上をくすぐるように揺れている。
この髪は自分のものじゃない。自分の髪はこの人が手に取るためにあるけれど、鮮烈な百合の花を思わせるこの髪を手に取るのは自分ではない。
いいなあと思う。この人の同室の暑苦しい先輩に憧れたことなど一度たりともない。ただ、このことに関してだけは心底羨ましいと思う。
あの人だけが、触れることができる。あの人の指だけを、この人はゆるす。
この髪は、あの人のものだ。
ああ、面倒くさいなあ。
「どうした?」
ぽかんとこちらを見つめるその人の声で、自分が不自然に手を伸ばしていたのにふと気がついた。その指をすうと引っ込めて、綾部はふいと目を逸らした。
「・・・なんでもないでーす」
不思議そうにしているその人の柔らかな膝に、またぼすんと顔を埋めた。
その人は一瞬手を止めて、ふう、と静かにため息を吐いた。まったくお前はよく分からない、と。呆れたようにそう言いながら、それでも白い手は自分の髪を撫ぜ始めたから、あたたかな日だまりの中で綾部は安心して目を閉じた。
その人の指からは、わずかに百合の香りが漂っていた。



どうしてもひとつだけ叶うことがないのだと知っている。
ならばせめて、そのほかのすべてを手に入れたい。






君の恋はわかりにくい
12/14/2009





綾部が仙蔵の膝に乗ったり、背中に突進したり、我儘言ったり、そういうことは平気でやるのに、仙蔵の髪だけは自分のものではなくて、文次郎のものであることをなんとなく気がついてたらたぎる!
わたしだけが楽しい話ですみません