※文次郎に嫁がいます
※というか仙蔵と文次郎嫁の会話です


峠の茶屋、二つの栄えた街を結ぶこの場所を通りかかる人々に混ざってその人は訪れる。
彼はどこか目を引く人だった。
腰よりも長く伸ばされた美しい黒髪が、ぴしりと緊張感のある身のこなしが、あるいは遠目にも分かる整った面差しのせいだったのかもしれない。
けれどもわたしが違和感を覚えたのはもっと後、彼がわたしに当てる不思議な視線に気がついたときからだった。
色を含んだ視線ではない。興味本意とも思えないけれども、敵意でも悪意でもあり得ない視線だった。
それでも視線に気がついて顔を上げると、彼はいつでもそっと眼差しを伏せて顔を背けてしまうのだ。
だからその瞳が何を見ているのか、何を見ようとしているのか、わたしが知り得ることはなかった。
そんなことが何ヶ月、何年も続いたある日の夕方。
彼はいつもと同じように店を訪れて、いつもと同じように三色団子とお茶を頼んだ。
夏の暑さが引いた、穏やかな秋晴れの夕暮れだった。
蜻蛉が小さな羽を震わせて青い空を行き交う、鴉の鳴く声が良く響く日のことだった。



願わくは



夕陽が傾きはじめ、辺りはほの暗く沈みはじめていた。
昼間は盛んだった人の通りもまばらになり、茶屋にいる客はもう彼だけだった。
この人が帰ったらもう店じまいにしようと、赤い布が敷かれた縁台に団子とお茶を揃えて差し出した時だった。

「綺麗な髪飾りですね」

唐突にかけられた声がどこからしたのか、一瞬分からずにわたしは迷った。
今この店に残っている客は彼だけなのだから、その言葉を発したのはその人でしかありえない。
それでも数年間一度も言葉を交わしたことさえなかった人だ。
まったく予期していなかったその台詞に驚きながらも顔を上げ、けれでもやはり声がした先には、その人がいた。
端整な面差しににこりと微笑を浮かべて、彼は初めて真っ直ぐにわたしを見つめていた。
「とても良くお似合いです」
わたしは少し戸惑った。
真っ直ぐにその人を覗いたのは初めてのことだったから気がつかなかったけれども、彼は驚く程に整った顔立ちをしていた。
漆黒の髪が肩を伝い、雪を思わせる透き通った肌へと流れている。覗き込んだ彼の瞳は思いのほかに薄く、透けるような色をしていた。
一瞬の動揺を隠して、わたしはすぐにその人がしたように微笑み返した。
「ありがとうございます」
濃い紅の簪は今日初めて付けたものだ。そっと結い上げた髪に手を副えると、華奢な金具がしゃんと鈴の音を立てて鳴った。
「先日主人が日向で購ってきたものですの」
その人は軽く目を瞠って、女性がするように首をそっと傾いだ。
あまりに自然な仕草のそれは、多分彼の癖なのだろう。
「ああ」
細く息を吐き出すように、彼は微笑んだまま穏やかな声音で言った。
「ご結婚されているようには見えませんでした。ずっとお若い娘さんかと」
そう言って彼は手に持ったお茶をことりと椅子に置いた。
「まあ、ご冗談を。もう三十に手が届きますのよ」
「そうだったのですか。驚きました」
驚いたと言う彼の表情は一定で変わることがなかった。
まるで台詞を諳んじているようにも、彼がずっと前からその事実を知っていたようにも、わたしには思えた。
「こちらのお店はご主人と?」
その質問に、わたしはまたわずか戸惑うことになった。
忍である彼はこの場所で土倉として生活している。けれどもその実は町衆として溶け込みながら情報を集め、隠密活動に携わっているのだ。
彼のことをあまり喋るのは好ましいことではないことが分かっていたから、わたしはなるべく差し障りの無い答えを返した。
「いいえ、私が一人で。主人はすこし離れたところで土倉をやっておりますわ」
「ああ、そうでしたか」
穏やかに微笑むと、彼は三色団子を口に運んだ。一つ口に頬張って、ゆっくりと味わうように咀嚼をする。
ふつりと会話が途切れて、沈黙が広がっていく。その人が美味しそうに団子を頬張るのを見つめながら、わたしは口に出していいものか迷っていたことを問うことにした。
「ずっとご贔屓にしていただいていましたね」
彼は眼差しを持ち上げてぱちりと一瞬まばたきをしたのちに、ばつが悪そうな、照れたような、わずかに苦い表情をした。
「ああ、気付かれていましたか。申し訳ない」
そう言って彼は丁寧に頭を下げたので、わたしも慌てて頭を下げた。
「とんでもない。何度も足を運んでいただいて嬉しい限りですのよ」
「ふふ。今日もこちらのお団子がいただきたいがために、仕事帰りに遠回りをしてしまいました」
あの視線の意味は何だったのか、何を見つめていたのか、どうして今日唐突に口を開いたのか。
聞きたいことは山のようにあったけれども、不躾な問いかけをするわけにもいかない。
何もわからないままわたしはそっと言葉を飲み込んで、代わりに無難な問いをした。
「隣町でお仕事を?」
「いいえ、私は便利屋のようなものなので。今はこちらの町を基盤にしているだけですよ」
思い返せば、一ヶ月に一度はここを訪れる彼が、ぷっつりと数ヶ月もの間姿を見せなくなることが幾度かあった。
聞けば北は常陸や下総、西は加賀や越後、南は薩摩や琉球国までもを回っているらしい。
上の命一つでどこにでも参らねばならぬのです、そう言って彼は困ったように笑った。
「それでもいつ立ち寄っても、こちらのお団子は変わらないですね」
舌やすめの茶を啜り、彼はまた二つ目の薄桜色の団子に手を伸ばす。
「お口に合ってなによりですわ」
「あなたがお作りに?」
「ええ」
「とてもいい味ですね。母の手料理を思い出します」
「まあ嬉しい。ありがとうございます」
彼はそっと手許の団子へと目を落として、何故だかほうっと安堵の溜め息をついた。
「・・・あなたのご主人は幸せな方ですね」 
傾いた夕陽が彼の穏やかな横顔を照らし出している。長い睫毛が蝶の羽のような影となって、彼の眼差しを一瞬、隠した。
「こんなに素敵な奥様がいる」
ぽつりと呟かれたその言葉は、ともすれば風に攫われて消えそうなほどにささやかな音だった。
彼の言葉を掻き消すように、ざああと稲穂の揺れる音がする。鴉の鳴く声が突き抜けるほど広い秋空に良く響いて、秋桜を揺らして、青色の中に消えて行った。
返すべき言葉があるのは分かっていたけれども、わたしは言葉に詰まって、ただ曖昧に微笑んだ。
そんなわたしの困惑に気がついたのだろうか。
彼は顔を上げるとにこりとまた同じ笑みを浮かべた。
「ああ、すみません。独り身なので、ときどき無性に優しい味が恋しくなるんです」
「いいえ、とんでもない。またいつでもいらしてくださいな」
彼はそっと頷くと、最後の団子を頬張ってゆっくりと咀嚼した。
丁寧に丁寧にそれを味わい切ってから視線を上げて、彼はまた微笑んだ。
「最後にこちらのお団子をいただけてよかった」
最後、という言葉にわたしは首を傾いだ。
「どちらかへ行かれるのですか?」
「明日、南蛮へと旅立つことになったんです。旅立つ前にこちらのお団子をどうしてもいただきたくて、つい来てしまいました」
ふふ、と彼はまた視線を落とす。
いつしか日は完全に西に傾いていた。辺り一面は絵の具で染め上げたように、鮮やかな橙に塗りつぶされていた。
あたたかな色をした夕陽の中で、彼と、わたしだけが浮かび上がっていた。
「こちらにはいつ戻っていらっしゃるのですか?」
「・・・戻ってはこられないかもしれないのです」
そう言う彼の声がひどく悲しげだったから、わたしは問うてはならぬことを口走ったのだとそっと口を押さえた。
「申し訳ありません、わたし」
けれどもわたしが謝罪の言葉に口を言い切るよりも早く、彼はそっと首を左右に振った。
眼差しを持ち上げたところから、薄い色をした瞳の色に夕陽の色が差し込んでいく。眩しさにそっと目を細めながら、彼は穏やかな声音で言葉を続けた。
「もしも帰ることができたら、またこちらにお伺いさせてください」
「ええ・・・ええ、ぜひに。またここでお待ちしておりますわ」
「ありがとうございます」
わたしの応えにもう一度にこりと微笑むと、彼は笠を目深に被りながら腰を折って頭を下げた。
「お元気で」
「ええ、お元気で」
穏やかな微笑みを浮かべて、彼はそっと踵を返してまばゆく滲む夕陽の道を歩き出した。
すべてが夕陽の中で溶けていく。彼の長い黒髪も、青い色に染められた服も、足音の一つも、真摯な色をした淡い瞳も、すべてが鮮やかな橙の夕陽の中で溶けてゆく。
目を逸らすことができずに、その後ろ姿を追っていたその時だった。
不意にその人がこちらを振り向いた。
唐突に強い風が吹く。
夏のあたたかさを残した風が、秋桜を、ススキを、桔梗を揺らして、橙色の世界を駆けてゆく。埃の匂いのする風が、わたしたちの間をすり抜けていった。


「貴方がいてくれて、よかった」


わたしは目を瞠ってその人を見つめた。
彼が紡ぐその言葉の意味は分からなかった。けれどもただその声がひどく切ない音をしていたから、わたしは問い返すことができなかった。
目が眩むような夕陽の中でその人のシルエットだけが逆光となり、橙の空気をぽかりと切り取り濃い灰色となって浮かび上がる。
影に塗りつぶされた表情を伺い知ることが出来ないまま、わたしは眩しさに思わず目を細めた。
「お願いがあります」
稲穂が揺れてさわさわと音がする。秋の風が長い髪を攫ってゆくのもそのままに、彼は逆光の中で真っ直ぐに私を見つめていた。
「疲れて隈ができている時には、休ませてやってください。三日三晩も徹夜を続けている時には、叱って寝かせてやってください。言葉を吐き出せずに溜め込んでいる時には、肩を貸して泣かせてやってください。あなたのおいしい料理をたくさん食べさせてやってください。彼の支えとなってそばにいてやってください」
どうか、どうか。
「あの男を、幸せにしてやってください」
まるで希うような声だった。祈るような声だった。大切な願い事を必死に祈る子供の声に、それは似ていた。
瞠目したままそこに立ち尽くしたわたしを見つめて、彼は微笑んだ。
微笑んだような、気がした。
たった一つの願いをわたしに託して、彼はまたゆっくりと踵を返して歩き出した。
夕陽に向かってゆっくりと小さくなっていく後ろ姿を見つめながら、けれども一つの足音も衣擦れの音も聞こえないまま、彼は姿を消した。
まるで滲んでゆく橙の中に溶けて、沈んで、消えてゆくように、彼はいなくなった。




「どうかしたのか?」
後ろを振り向いたそこには、忍務から帰ってきたあの人が立っていた。
返事をしようとせずに、店の前に立ち尽くしたわたしを彼は怪訝そうな顔をして見つめた。屈み込んで彼はわたしの顔を覗き込もうとする。
「おい、どうした。誰か来てたのか?」
その言葉に応えることはできなかった。何も言わずにゆるゆるとその眼差しから視線を逸らして、わたしはそっとその人が消えて行った道の先、深い色をした眩しい夕焼けの光を目で辿った。



どこか物悲しい色をした秋の日のことだった。



願わくは
8/20/2010