「せんぱいせんぱい」
「なんだ」
「セックスしましょう」


日当たりの良い長い廊下を二人で歩いているときだった。
その言葉があまりに今まで話していた課題の話題とかけ離れていたからだろう。
その人は運んでいた首人形を落としそうな勢いで肩を震わせると、詰まったような、くぐもったような不明瞭な声を上げた。
こちらを振り向いたその人の表情は、綺麗なはずの顔立ちにまったく似つかわしくなく不細工だった。わあ、と思ってその人の顔を見上げる。
虚を突かれるとこの人でもこんな顔をするのだ。伝七あたりに見せてあげたいような気がする。
「お前、何を・・・」
「私、上手なので優しくしてあげられます」
顔を歪めていてもその睫毛はひどく長い。眉を顰めて、ぱちぱちとそれを瞬かせているその人の手を取って、畳み掛けるように続けた。
「あ、でももし先輩が私に突っ込みたいならそれでもいいですよ。私が女役になります。それとも潮江先輩も一緒に三人で、」
「ちょっと、ちょっと待て」
続けようとした自分の言葉を遮って、その人は困惑交じりに溜め息をついた。
虚を突かれて歪んでいた表情はいつの間にか元に戻っていた。いつもと変わらない綺麗な面差しを僅かに苦さを浮かべて、その人は二度目の溜め息を付いた。
「・・・有難いが、喜八郎。間に合ってるし、いろいろと間違ってるぞ」
やれやれ、と言ったような口調でその人はまた歩き出す。その後ろを追いかけながら、ふうん、と呟いた。
「なんだ」
「先輩って貞操観念とか崩壊してるんだと思ってました」
「お前と一緒にするんじゃない」
その人はそう言ってから、足を止めてこちらを振り向いた。困ったように深く息を吐くと、綺麗に整った眉を上げて、その人はなんともいえない表情を浮かべた。
何かを言いたげに赤い唇が動いた。
「あのな、喜八郎」
何かを思い巡らすような、言葉を選ぶような間を取ったあとで自分の背丈に合わせてその人が膝を折って屈み込む。きれいな眼差しが自分を見つめた。
「お前は大事なことが分かってないようだ」
白い手が宥めるように、諭すように自分の髪をくしゃりと撫ぜる。まるで兄のような仕草で。
「そういうことは想い人とするものだよ」
真っ直ぐに自分を覗き込む瞳はあまりに澄んでいた。
まるでそれが硝子玉のようだったから、思わず触れてみたい衝動に駆られて顔を上げる。けれども上を向いた瞳は、その人の清潔な色をした瞳に、真っ直ぐな視線に捕らえられた。
「たとえ一時の情欲に流されたからといって、軽々しく口に出してはいけない」
そうして愛おしむような、大切なものを見るような眼差しを自分に向けて、その人は優しく微笑んだ。
「私はお前にもっと自分を大事にしてほしいよ、喜八郎」



ふと、外から大声が聞こえてきてその人はそちらに目を遣った。
その視線の先にはへとへとに疲れた様子でランニングをする会計委員会の面々と、彼らを追い立てる会計委員長がいた。
その人の視線がどこを向いているのかは、一目瞭然だった。
「また会計委員か」
本当に仕方がない委員長だ。
そう呟きながら、その人は顔にかかった長い髪を手でそっと押さえた。
舞い上がった髪から覗いたその表情が視界をいっぱいにしていく。


ああ、きっとこの人は気が付いていないのだ。
その目線が誰を追っているのかを。
今自分がどんな表情をしているのかを。
その表情が他の誰にも向けないものであることを。



ふいと視線をその人から逸らして、首人形を持ち上げ直した。その人の横を足音を立てて通り過ぎると、後ろから訝しむ声が追ってきた。
「急になんだ、喜八郎」
その問いにすぐには答えることをせずに、そのまま歩き続けた。
「別に。ただ思っただけです」
怪訝な顔をするその人に聞こえるように、ほう、と溜め息を吐くのと一緒に、ちいさな声で呟いた。
「お互いに、苦労しますね」
その人は結局不思議そうな顔をしたまま、首を僅かに傾いだ。







やさしいだけの手のひら
1/19/2010





個人的に綾部は貞操観念が崩壊してるといいと思いますが「潮江先輩も一緒に」のくだりは綾部がそうしたいわけじゃなくて譲歩です
仙蔵が文次郎としているのを目の前で見ることになっても、そこまでしても仙蔵に触れたいってくらいに思いつめてる綾部がすき・・・