学園を去る、前日だった。
殺風景な部屋の中を片付けながら、文次郎は決して多くはない荷物をまとめていた。
読本も、墨も、紙も、もう使うことはないだろう。
あまり綺麗好きとも整頓上手とも言えないくせに、こんなときに限っては仙蔵はなぜだかもう早々に片づけを終えて、本を手に机に向かっていた。
仙蔵から視線を逸らして、文次郎は棚に入っていた読本の束を揃えると、一つの箱に収めた。それは自分の心とは裏腹にぴったりと収まって、文次郎は思い出に幕を閉じるようにその蓋を閉じた。


六年間。
六年間だ。
この思いをどう表したらいいのか、分からない。上手く言葉に出来そうに無かった。
ただ、入学したばかりのときから、今に至るまで、記憶はひどく鮮やかで、すべてをありありと、昨日のことのように思い出すことが出来る。
そしてその記憶のすべてに、今同室にいる、唯一残ったクラスメイトがいる。
笑っていたときも、泣いていたときも、怒っていたときも、悔やんだときも、惑ったときも、絶望したときも、希望を見つけたときも、途中で崩れたときも、何かを失ったときも、何かを得たときも、いつだって、自分の隣には彼が居て、彼の横には自分が居た。そうやって、静かに、淡々と、この関係を続けてきた。
どちらとも言葉にしたことはない。態度で表したわけでもない。しっかりと手を繋いでいたわけでもない。お互いにその肩に寄りかかっていたわけでもない。
ただひたすら、目線を合わせることもなく拳を合わせて励ましあった。どちらかが歩けなくなったときには黙ってその手を引いた。不安に押しつぶされそうになったときにはその背中を貸した。そうやって二人で生きてきた。


それでも、それは今日で終わる。
ここを出たら、自分たちは反目する敵同士になる。

学園を出た後に自分が仕える主と彼が仕える主が血縁同士であり、双方に生まれた男児の正当な継承権を巡って不和にある相手だということを知ったのは、卒業を間近にしたときだった。
彼らの間の緊張は徐々に高まっていた。いつその糸が切れてもおかしくはなかった。どうしたって、お互いの主の間に争いが起こることは避けられなかった。
それを知りながら、自分も、彼も、それを口にすることはなかった。
決定を覆すことも、それを拒絶することも、自分たちのような忍には出来ないのだ。
ただひたすら主から下された命を仰ぎ、任務に殉じることで生きていく自分たちには。



「なあ、文次郎」
唐突にかけられた掛けられた声に、文次郎は後ろを振り向いた。
机に向かって本を読んでいたはずの仙蔵は、いつしか立ち上がって障子に手をかけたまま、自分に背を向けていた。
少しだけ開かれた白い障子の向こうに見える濃紺の空には、眩いばかりの満月が浮かんでいた。
こちらを振り返らないまま、声は続いた。
「もう六年が経ったなんて信じられないな」
肩越しにその表情を伺うことは出来なかったけれど、それは何気ない口調だった。だからその口調をなぞらうようにして、文次郎は相槌を打った。
「・・・ああ、そうだな」
仙蔵はゆっくりとした仕草で、顔だけをこちらに向けた。
整った顔立ちには薄い微笑が浮かべられ、切れ長の瞳には穏やかな色が浮かんでいる。少しだけ顔を傾いだのと同時に、結わえられた漆黒の髪の毛がさらりと肩の上で動いた。

「学園に来たのが昨日のことのようだ」
そう言いながら、仙蔵は何かを思い出したようにくすりと笑う。
「覚えているか?お前、一年のころすごい泣き虫だったなあ。転んだ何だって言って、いつも私の後ろに隠れていて」
いきなり昔の話を蒸し返されて、少しばつが悪い思いで文次郎は顔を顰めた。それにそれは自分だけじゃない。
「ばかたれ、お前だって人のこと言えないだろう。鎖鎌が扱えなくて痣を作って泣いていたのを忘れたか」
仙蔵は一瞬、何かを思い出したような表情をした後で、整った唇の端をにやりと持ち上げた。
「さて、そんなこともあったかな」
「お前、人のことばかりを・・・」
「しかしお前、あの時は可愛かったのになあ」
仙蔵はくすくすと笑いながら、文次郎の呆れたような声を一方的に遮って、からかうように続けた。白い足が一歩とん、と踏み出されて、きらりと輝いた目が自分を下から覗き込んだ。
「こんな隈をこしらえるむさくるしい男になるとは」
「・・・悪かったな」
仙蔵はまだくすくすと笑い続けている。
いつもと変わらない、滑らかな声。いつもと変わらない調子で、自分を揶揄する声。
いつもと同じ、いつもとまったく同じもの。
それでもこんな軽口を交わすことはもう無い。その事実は文次郎の体の内側を揺らして、ひどく焦らして、行き場の無い思いとなって胸に落ちる。
文次郎がすこしだけ目を伏せたそのとき、ひとしきり笑っていた仙蔵がようやく落ち着いたらしい、ふう、と息を吐くのが聞こえた。
仙蔵は少しだけ不安定に視線を彷徨わせて、もう一度、今度は静かに息を吐いた。
吐き出された彼の細い息が、静かな空間を揺らしたのが分かった。
「ああ、でもあのころからずっと」
揺れていた視線がこちらを向く。それは独り言のような音だった。まるで挨拶をするかのような、天気の話でもするような、何でもないことを言うような口調だった。何の意図も、何の感慨もないような口調だった。


「私はお前が好きだったよ」


硬質な黒い色をした瞳が瞬いて、その双眸に甘やかな光がふわりと滲んだ。仙蔵はちいさな微笑を浮かべて、その瞳で、きれいな瞳で、自分を真っ直ぐに見つめた。
当てられる視線から目を逸らすことはしなかった。
本当は叫びたい思いがあった。それでも、どんなに望んでも、希っても、変わることが無いのなら。
「・・・ああ」
文次郎はゆっくりと口を開いて、呟いた。


「俺もだ」


この言葉が何を意味するのか、分かっていた。自分も、目の前に対峙するこの男も、痛いほどに気がついているはずだった。
愛の言葉ではない。睦言などであるはずがない。
これは、別離の言葉だった。
これから先歩いていく道が決して交わらない自分たちの、最後の言葉だった。
幾人もを殺めるために人の心を捨てる前に、任務だけを全うするためには手段を選ばない忍になる前に、そして命を賜れば、六年間をともに過ごした誰よりも大切な人間を殺める人間になる前に。
最後に、相手に伝えておかなければいけない言葉だった。
すうと笑みを消して、仙蔵は何か言いたげな顔をした。
こちらを見つめたまま、長い漆黒の睫毛が揺れる。躊躇いのような間があったあと、おもむろに細い脚が踏み出される。
見えない距離をはかろうとするかのように、少しずつ。
一歩ずつ、一歩ずつ、距離が縮まっていく。
いつしか二人の間には、ほんの一尺ほどの僅かな距離だけが残されていた。
「文次郎」
目の奥には揺るぎない意思がある。思い続けた年月を裏付けるような強さがある。目の前で対峙する瞳の色が痛かった。
「私は今日で、この想いを捨てる」
「・・・せん、」
「分かるだろう、文次郎」
文次郎の言葉を遮って、仙蔵は言葉を続けた。ぴしゃりと叩きつけるような声だった。溶け出した感情が声に滲んでいるのが、見えた。
「きっと、近いうちに、私の主とお前の主の間で戦が起きる」
お前も分かっているだろう。真っ直ぐに当てられる声に、文次郎は答えなかった。きつい眼差しが答えを求めて、自分を下から見上げている。
それでも自分の言葉が聞こえないことを知ると、仙蔵は、諦念の表情を滲ませてその視線を逸らした。
逸らしながら、小さな声で呟かれる音が聞こえた。
「衝突は、避けられない」
視界の下に映る華奢な肩が僅かに震えていた。それは自分のものと比べて、あまりに脆く、細い。
こいつは、これから、どうやって生きていくというのだろう。
心の中に様々な思いが沸いてくる。
一緒に居ることが出来たなら、その手をとって生きていけるのなら、一緒に歩いていくことが出来たなら。そんなこと、どれだけ思ったか知れない。
それでもそれが出来ないのならば。
「・・・ああ」
その思いを振り切って生きていくことしか、選べない。
「終わりにしよう」


仙蔵はその眼差しをゆっくりと持ち上げた。
硬質に美しい面差しが浮かべているのは、今まで見たことのない表情だった。
悲しげにも、穏やかにも見える黒曜石の目が真っ直ぐにこちらを向いて、仙蔵は唇を薄く噛んだ。美しい瞳が瞬く間に光を湛えていく。それが涙だと気がつく前に、淡く滲んだ水は溶けて、落ちていった。
踏み出された足が、さ迷うように自分のほうへ向かう。一寸しかない距離を、ゆっくりと。
いっぱいに水を湛えた瞳が静かに伏せられる。
そうして仙蔵は何も言わずに、文次郎の肩に、顔を寄せた。


横に下ろした手の行き場所を一瞬だけ躊躇った。この手を伸ばしてしまったら、この手できつく抱き寄せてしまったら、想いが溢れてしまうような気がした。すべてを捨ててしまえる気がした。
ほんの僅かなときを逡巡して、結局文次郎はその細い肩にだけ左手を伸ばした。
その体をそっと抱き寄せて、濡れたように月の光を集める髪に触れるか触れないかの口付けを落としたまま、文次郎は静かに瞳を閉じた。




仙蔵。
それでも、と願ってしまうのは俺の過ちか。
それでもできることならば、お前と反目することがないように、お前と戦で出会うことがないように、お前を殺めることがないように、と。




理想を説くな文次郎。
明日には私はお前を殺す。
お前も私を殺さなくてはならない。
それが私たちの使命で、それが忍として生まれた者の運命だろう。
私たちは、こうしてしか生きられないのだから。







儚いことの例え
12/03/2009