※文仙綾というか、文次郎→(←)仙蔵(→)←綾部
※仙蔵が錯乱しています
※暗いです
秋の空はどこまでも高く澄んでいた。
清廉に研ぎ澄まされた空気の中に、鴉の鳴き声が良く響く。
滲みはじめた夕日の色が鮮烈に青い色と混ざっていくのを、綾部はまばたきもせずに見つめていた。
体はまるでふわふわと浮いているように不安定だった。
あの空に浮かぶ雲の上にいるような、今にも深い深い穴の底に落ちてしまうような、そんな気がしていた。
本当はこの感情を知っている。名前を付けることができる。
でももしも自分が今叫びだしてしまったら、彼は二度と帰ってこないような気がしていた。
「・・・綾部」
そっと障子が開く音がした後に、自分の名前が呼ばれた。
いつもの委員長ぶりとは似ても似つかないほど、静かで覇気のない、窶れた声だった。
ずっと床に伏せるあの人のそばに付きっきりだったのだろう。
その声から容易に想像がついた。
彼が、委員長が、立花先輩が忍務中に大怪我をして、潮江先輩の救護のもとに忍術学園に戻ってきたのは先日のことだった。
自分はそのいきさつを知らない。
彼がどれだけひどい怪我を負っていたのかも知らない。
学園のほとんどの生徒は、彼がこんなことになっている事実すらも、知らない。
彼がどんな姿になって戻ってきたのか、なぜ自分だけに真実が伝えられたのか、なぜ潮江先輩がわざわざ自分をここに呼んだのか。
聞きたいことが多すぎて、だから後ろを振り向くことをしないまま、即座に彼に問い掛けた。
「立花先輩のお加減は如何ですか」
潮江先輩は自分の横に腰を下ろすと、溜め息をつくこともせずに、小さな声で呟いた。
「命に別状はないんだ。ただ、・・・錯乱状態で」
「・・・」
「まるで子供に還ってしまったようだ。誰かが四六時中ついていないと、あいつは暫くはやっていけないと思う」
そっと今自分が出てきた六年い組の長屋を振り向いて、今は伊作が薬で寝かしつけてくれている、と彼は呟いた。
「・・・暫くとは」
いつまでですか。回復の見込みはあるのですか。いつになったら私の知っている立花先輩はかえってくるのですか。
莫迦らしい質問を問い掛けようとしたけれども、横を向いて見つめたその人があまりにも苦しげな表情をしていたから零しそうになった言葉を飲み込んだ。
彼は遠い空を見つめて、小さな声で続けた。
「俺がいなくなると不安がる。ひどい怪我なのに起き上がって俺を探そうとする。大声で名前を呼んで、泣き喚いて、まるで迷子の子供の様に」
「・・・」
「今のあいつは、俺らが知っていた立花仙蔵じゃない」
ぽつり、ぽつりと紡がれる彼の言葉の端からゆっくりと真実が見えてくる。
綾部は下を向いた。得体の知れない感情に心臓がかき乱されそうになる。
彼は戻ってくるのだろうか。自分の知っていたあの人は。
「何か、手立てはあるのでしょうか」
「・・・分からない」
「何が出来るのでしょうか」
彼は何も言わなかった。
ただ虚空に目を遣って、空の遠く、ずっと向こうを見つめていた。
まるで何か、ずっと昔のことを思い出すかのように。
「私には何も、出来ないのですか」
「・・・」
「だったらなぜ貴方は私を呼んだのですか」
唇から零れた言葉は思ったよりもずっと荒立っていた。
感情が、怒りが、恐怖が、諦めが、たくさんの溢れそうなものが混沌としたまま言葉の形を成していた。
「俺が呼んだんじゃない」
彼は自分の言葉を咎めることをしなかった。
その代わりに、ふっと見上げていた空からこちらへと視線を落として、彼は真っ直ぐに自分を見つめた。
「仙蔵が呼んだんだ」
告げられた言葉の意味が分からなかった。
分からないはずなのに、その言葉は自分の心臓を揺さぶって、呼吸をとめた。
言葉を失った自分をみとめて、潮江先輩はそのまま続けた。
「目が覚めたときから、仙蔵はずっとお前の名前を呼び続けてる」
黄金色の稲穂が風になびく音がする。
秋の冷たい風がざあっと舞い上がり、互いの距離を通り抜けていった。
「あいつには、必要なんだ。お前も、俺も」
「・・・」
「俺はあいつが望むことだったら何でもしてやりたい」
「・・・先ぱ、」
「あいつが幸せになることだったら何でもしてやりたい」
その目はいつもの彼のものではなかったから、これ以上言葉を続けることができなかった。
切羽詰まったその瞳は真っ暗な闇のようだった。
色も、光も、風も、なにも映していない。
その瞳はただ、今床に伏せる愛しい人だけを見つめていた。
ふっと視線を逸らして、彼はゆるゆると眼差しを自らの手に落とした。
「あいつがもしもお前と、俺を、望むのなら」
そこで彼の言葉は一度途切れた。
ぐっと歯を噛み締めた彼の仕草は、まるで言葉を飲み込んだようにも、探しているようにも思えた。
綾部、と自分の名前を読んで、彼はまたそっと眼差しを持ち上げた。
ほの暗い瞳で自分を真っ直ぐに見つめて、まるで希うような音で彼は言った。
「あいつを支えてくれないか。・・・そばに居てやってくれないか」
「・・・」
「俺と、一緒に」
その言葉がどんな意味を持っているのか、彼がどんな思いを込めたのか。
痛い程に分かっていた。
自分も同じように、あの人を愛しているのだから。
人は彼を盲目と呼ぶだろう。私のことを狂人と言うだろう。
けれどももう関係ないのだ。
私たちの感情など。私たちが何を望むのかなど。
「潮江先輩」
呼びかけた自分に、彼は視線を逸らさなかった。
盲目になった瞳が真っ直ぐに自分の中を覗き込む。だから自分も目を逸らさなかった。
「私はあの人のために生きているんです」
こんなにも近い距離で、ほの暗くかがやくその瞳を見つめる。
それでもその瞳が自分を映しているようには見えなかった。
「あの人が望むのならばどんなことでもします。あの人が望むのならば何だって構わない」
「・・・」
「・・・そうやって生きていくと、ずっと昔に決めたんです」
彼は暫しの間沈黙して、自分を見つめ、それから小さく頷いた。
ゆるゆると遠くの空へと視線が流される。彼はどこか安堵したような表情を浮かべてると、溜め息の響きで呟いた。
「そうか」
それ以上、私たちは言葉を交わさなかった。
彼の視線を追いかけるように、そっと遠い空を見つめた。
澄んだ青空を滲ませるようにして、夕陽の橙が溶けていく。秋の空を鴉が群れとなってどこかへ飛んでいく。
哀しいくらい美しい景色を見つめながら、きっと潮江先輩も、自分も、決して幸せにならないだろうと思った。
never cry (and you'll cry)
5/23/2010
右手を文次郎に、左手を綾部に。そうやって二人に支えられて生きていく仙蔵。
こうしてしか三人の関係が私の中で成り立たない・・・
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