※バイオレンス注意











物のように掴まれた肩を壁に叩きつけられるのとほぼ同時に、顔の真横に足が叩きつけられた。
「なぜだ文次郎」
名前を呼ばれて、顔を上げようとする。首がきしりと音を立てて軋んで、文次郎はほんの少しだけ顔をしかめながら、目の前に立つその人を見上げた。
ほんの少しはなれたところに、長い漆黒の髪が解けて揺れていた。肌蹴た夜着に包まれた肩は呼吸を乱していて、小さく上下を繰り返している。
裾から真っ直ぐに伸びた脚は自分の顔の横に下ろされ、自分を今にも蹴り飛ばしそうに威圧していた。

「なぜ殴り返さない」


切れ長の瞳がぎらぎらと不気味なほどに輝いていた。痛いほど硬質な色をした眼差しが真っ直ぐに自分を見つめている。
その色だけはいつもと変わらない。だから自分はこの男を見分けることができる。
どんなに普段と違おうとも、この男は、間違いなく、立花仙蔵そのものだった。
初めてではない。頻繁ではないが、幾度目かもう分からない。
時々、仙蔵にはこういうことがあった。
それはまるで発作のように訪れるのだ。
不意に何かの糸が切れたように癇癪を起こす。光も音も失って思考すらもできなくなったかのように、ひたすら本能に任せて何の容赦もなくその手を上げる。
理由があるのかもしれない。けれどもそれは分からない。
だからすべてを受け止めてきた。その真っ白な手で振るわれる暴力を。


「・・・それは、お前が望むことじゃないだろ」
幾度もその手で殴られた頬が嫌な痛み方をした。ねっとりと生臭い血の味が口の中に広がって、上手く口が回らない。
それでも仙蔵ははっきりとその言葉を聞き取ったようだった。
薄暗い闇の中で、仙蔵は一瞬面食らったような顔をした。
けれどもすぐに、強い瞳はぎゅうと細められて自分を見下ろす。
「私が望まないことはしないとでも?」
髪が一房、ざらりと音を立てて肩から落ちた。恐ろしいほど質量のある音だった。
「そうだ」
真っ白な頬がかあ、と紅潮した。真っ黒な瞳が自分を睨み付けるのと同時に、顔の横に置かれていた足が顔面を思い切り蹴り上げた。
鈍い音がして、一瞬のうちに視界が暗転した。
平衡感覚を見失って、文次郎は壁に叩きつけられたまま、ずるずると床に肘をついた。
ゆっくりと開いた目の真下に、ぼたぼたと音を立てて生温い液体が落ちる。
真っ赤な色をしたそれは、何の躊躇いもなく井草の青い畳を染めた。
「嘘を吐け!」
仙蔵が声を張り上げる。その音にもまた、血の色がありありと滲んでいた。
何かを暴き立てようと、責め立てようと、痛々しいほどに尖った声が自分を問い詰める。
何もないことを示せば示すほど、この男は欺瞞の不安に揺れる。
どんなに疑おうとも、自分は変わりなどしないのに。
「嘘じゃない」
蹴られた鼻から流れる血をゆっくりと手で拭う。ぐらつく視界を持ち上げるよりも早く、胸倉を掴み上げられた。
「どの口が言う!」
自分を睨み付ける視線に真正面から晒されて、文次郎は仙蔵の顔を見上げた。
真っ白な頬は紅潮し、目の端は赤く染まっている。美しい美しいと皆に讃えられ誉めそやされてきた面差しは、今泣き出しそうにぐちゃぐちゃに歪んでいた。
一瞬の間すら置かずに細い手が振り上げられるのが、見えなくとも気配で分かった。
ああ、理性を手放そうとしている。
今の彼には自分の声は届かないかもしれない。何も見えないかもしれない。
それでも文次郎は、小さな声で呟いた。
「嘘じゃ、ねえよ」



自分を殴るはずの手は、振り下ろされることはなかった。
閉じることをしなかった視界の端、眼球の真横に、寸前で止められた手が映っていた。自分の胸倉を掴む手がふるふると震えていた。
仙蔵はただひたすら、こちらを睨み付けていた。何を言うこともなく、ただひたすら、唇を震わせて。
かける言葉を考えるよりも早く、その手は、力なく自分を解放した。
どさり、と自分が壁に寄りかかるのと同時に、仙蔵は床に膝を付いた。きれいなきれいな瞳がゆっくりと自分から逸らされる。
彼は細い体を震わせながら、力なく下を向いた。歯を喰いしばって、何かを耐えるように。
長い睫毛がかすかに震えているのが見えた。
嘘じゃない。
嘘であるはずがない。
そんな顔をさせたいのではない。
苦しめたいのではない。
ただ、傍に居ると、すべてを受け入れると、だから心配などせずとも良いのだと、そう伝えたいだけなのに。


俯いた視界の端に、震えるほど強く握られた拳が映った。
真っ白なその手は赤黒い血の色が滲んでいる。

それが彼の手を傷つけて流れたものでなく、自分のものであることに、文次郎はひどく安堵した。






(もっと器用に、愛してやれたらよかった)







これは愛だとぼくだけが知っている
11/25/2009




全部受け止めるもんじと、それを試している仙様。理不尽でも受け止めてほしくて、でもそれをちゃんと分かってるもんじ。仙様の手についた血を見て、ああ、自分の血でよかった、こいつが傷ついてなくてよかった、って思うんです。盲目の愛のもんじのもんせんおいしいです