※教師骸×生徒雲雀のパラレルです。






西に傾いた日が、柔らかな光を放っていた。
青空にはきれいな橙が滲んでいて、その色は放課後の教室をも染め上げてゆく。
橙色の柔らかな光は、何かを照らし出すというよりも、そのものの持つ色を暗く沈ませているような気がした。
白いチョークは淡い橙に染まり、緑色であるはずの黒板は濃い黒に色を変えている。電気をつけていないこの教室自体が、いつしか明晰さを欠いていた。それでもなぜか薄暗い教室の中で、電気のスイッチを押す気にはならなかった。
暗くなる風景をまったく看過して、骸は黒板に向かったままチョークを走らせる手を休めなかった。カツカツという神経質な音が教室に響く。二人だけの、教室に。
後ろからは教科書を捲る紙の音も、ノートに走らせるペンの音も聞こえてこない。
きっとあの子は違うことを考えているのだろう。
カツン、とクエスチョンマークの点を打つと、骸は初めて後ろを振り返った。
思ったとおりだ。
眼鏡の奥で目を細めて、骸は目の前に座る生徒を見つめた。


案の定、彼は黒板などに目もくれていなかった。
教卓から一番近い席に座ったまま、彼は橙に染まった空に目を遣っていた。その瞳はどこか、空よりももっと遠いところを見つめているように見える。
西に傾いた太陽が、彼の頬を、髪を、瞳を、淡い橙に照らしていた。


「雲雀くん」
「…なに」
机の上に投げ出されたままのペンと、白紙のノートが全てを物語っている。教科書は閉じられたまま、開かれた形跡もない。彼は少しも問題など解く気がないようだった。
それはどう見ても補習に来た生徒の態度ではなかった。
本来ならば、なんとか単位を取ろうと必死にペンを走らせるはずだろうに。
わざと大仰に溜め息をついて、骸は雲雀の座る机の前に立った。
「僕は君のために放課後の時間を割いてるんです」
「へえ」
「出来損ないでもなんでもない、頭の良い生徒のためにね」
答えは返ってこなかった。
その代わり、彼の柳眉がわずかに上がったのを骸は見た。



彼はこんな補習を受けなければならないような劣等生ではない。
普段の授業こそ一度も顔を見せたことがないが、彼の試験の成績はいつも抜群だった。
だからこそ、自分はこの子を見逃してきたのだ。
けれども、唐突に彼はそれを裏切った。進級がかかった最後の試験で、彼は配られた問題用紙を裏返そうとすらしなかった。白紙の用紙を机の上に乗せたまま、ただひたすら窓の外に視線をやって、空に浮かぶ雲を見つめていた。
外を見つめるきれいな唇は弧を描いて、まるで笑っているように見えた。



カーテンがふわりと舞い上がる。教室に吹き込んできた生温い風は、二人の間の距離をすり抜けて、ちいさな教室のどこかに消えていった。砂を巻き上げた埃っぽい風は、どこかに花の香りを感じさせる。春が近いのだと思った。

溜め息をつくと、骸はもう一歩だけ歩を進めた。彼との距離はもうほんの僅かになる。
「解きなさい」
他の生徒には聞かせたことのない、きつい声だった。あえて命令の口調で、骸は言い放った。
「黒板の問題です。君が解けたら単位をあげましょう」
一瞬の間があった。彼は窓の外に遊ばせていた視線を、初めてこちらに向けた。
黒曜石の色をした瞳が鋭い光を湛えている。
ぎらぎらと光るそれは、まるで獲物を見つけた肉食獣のようだった。
骸は唇を笑みの形に歪めると、そっと眼鏡の奥の目を細めた。
「こんな問題、造作もないでしょう?」
その言葉に従うように彼の瞳が動く。
きれいな瞳で黒板の文字を一瞥すると、彼は緩慢な仕草で唇を開いた。
濁りのない音をした声がつまらなそうに、xとyが重なった式をすらすらと口ずさむのを骸は聞いた。
「…よくできました」
形だけ優しい言葉をかけると、彼は嘲るように鼻で笑った。
骸を、ではない。この芝居めいた遣り取りを、だ。
「くだらない」
変声期を迎えかけた声が不安定に揺れては音となる。だからこそ彼の声は透明だった。
その声と同じように、彼自身も大人と子供の間の境界線を揺らいでいた。
子供っぽさを残したまま、どこかで大人びた表情をして骸を見据える。
「くだらないよ、こんなこと」
「分かりませんね」
彼の真意に気がつかない振りをして、骸は言葉を続けた。
「君は単位が取れて、僕は補習から解放された。お互いに喜ぶべきことでしょう」
夕日が傾き始める。橙色の淡い光が教室から徐々に褪せていこうとする。
教室の中の二人分の影がゆっくりと色を濃くしていくのが目の端に映った。
「もっとも」
自分に当てられる鋭い視線を冷静に受け止めて、骸は静かに呟いた。
「君の目的が違うところにあるというのなら、別ですが?」



その言葉を受けて、彼はきれいな唇を歪めた。切れ長の目が瞬く。
「同じ言葉を返すよ、先生」
尊敬の念を一切含まない敬称を使って、彼は自分をそう呼んだ。傲慢ささえ感じられる声は、その呼称が意図的であることを示している。けれども彼のその態度は、むしろ骸には好ましく感じられた。

「…君は頭がいい」
骸はおもむろに屈み込むと、雲雀に向かって手を伸ばした。
雲雀は怯むことすらせずに、その手を享受した。本当に、頭がいい子だ。喉の奥でちいさく笑って、骸は雲雀の顎にそっと手を添えた。
「もっと難しい問題でも、いくらでも教えてあげますよ。君が望むのなら」
顎を掴む手に抵抗することもなく、雲雀は乾いた笑みを零した。
「そんなことじゃない」
獰猛な光を湛えた瞳が持ち上げられる。挑むように目を細めて、雲雀は骸を見つめた。
「僕が知りたいのは、くだらない問題じゃない」
「それでは、何を?」
夕日がゆっくりとビルの影に隠れていく。
僅かばかりの光を失って、教室の中の机が、椅子が、教卓が、その輪郭を手放そうとしている。けれども薄暗さを増した教室の中で、彼が唇の端を吊り上げたのが異様にはっきりと見えた。



「それ以上のことを、教えて」



闇の中でぎらぎらと輝く二つの瞳は今、ひどく性的な色を帯びて見えた。一歩間違えれば、自分が殺されかねない。けれどもその獰猛な煌めきに、骸は思わず目を細めた。
何かが背筋をぞくりと駆け上がる。全身を熱い血がどくどくと駆け巡っていく。理性の奥から欲望が溢れ出してくる。
それはずっと飼い殺してきた、自分自身の肉食獣の本能だった。


「いいでしょう」


ゆっくりとした仕草で、骸は雲雀が座る机に手を置いた。顎に添えた手に力を込めて上を向かせると、彼はそれに従った。黒曜石の瞳は今や燃えるような色をしている。挑発する視線を真っ向から受け止めて、骸は笑みを浮かべた。

「君が望むものを、望むまで」



そっと顔を近づけると、唇を合わせて噛み付くように口付けた。
うっすらと開かれた唇を舌でなぞって、そのまま熱い口腔内に舌を這わせる。差し出される舌を掬い取っては、息をすることすら許さずに深く交わるように口付ける。
このまま呼吸も鼓動も、止めてしまうかのように。

闇に飲まれていく教室の中で、ぎらりと楽しそうに肉食獣の目が光った。



さあ、どこまで教えてあげようか。






夕日の教室








Noctilucaの紅さんに捧げます!