目蓋の裏に差し込む鋭い光に、浅い眠りから意識は簡単に浮上した。
かち、かち。
壁に掛けた時計の秒針の音が耳に届いて、脳はゆっくりと覚醒を始める。
夢と現実とが入り混じった雑音の中で脳が回り始めて、同時に重い痛みが頭を走った。
固く閉じそうになる目無理矢理に抉じ開けながら、骸はのろのろとベッドに肘をついた。
ゆっくりと開いたところから燦々と輝く光が流れ込んできて、目を射るように差し込んでくる。瞳の奥が焼かれるほどに鮮烈な眩しさだった。
思わず眉を顰めながら倦怠に沈んでいる上半身をなんとか起こして、座り込んだベッドの上で骸は溜め息をついた。
窓の外では鳥が鳴いていて、その甲高い声は耳に届いてはずきりと脳に響く。
視界に入ったベッドサイドの時計は赤いダイオードを電光板に光らせていて、その無機質な表示から骸は今日が日曜日であり、今が六時を僅かに回った時刻であることをようやく知った。
休日の早朝に、窓からこぼれてくる清潔な朝の光、小鳥の鳴く声。
小説のように爽やかな描写とは不似合いなほどに、あまりに不快な目覚めだった。
頭を擡げる鈍痛と、騒がしい雑音に濁った感覚の中で、喉が掠れるほどに乾いている。
けれどもそれ以上に舌が求めるのは、苦く広がる、神経に作用する毒の味だった。
煙草が、欲しい。
そっと隣に横たわる人に目を遣ると、彼は真っ白なシーツの上で眠りに沈んでいた。
閉じられた目蓋はぴくりとも動かず、滑らかな喉は呼吸に震えては薄い胸が規則的に上下する。
静かに寝息を立てるその人が暫く起きる様子がないことに骸は小さく安堵した。
僅かに動く喉は正しい呼吸を正確に紡いでいて、その音を聞きながら、彼の肺はちっとも汚れずに綺麗なのだろうな、とぼんやりと思った。
彼は酷く煙草を嫌う人だった。
やめろと言われたことは一度もない。けれども、こんなもの吸ってるなんて莫迦じゃないの、という彼の怒気さえはらんだ一言で、この家の中で煙草を手に取ることなど出来なくなった。
少なくとも、彼の見ている前では。
物音を立てないように静かにベッドサイドの引き出しを開けると、手前の本やら何やらを押し退けて一番奥に隠したものを探る。すぐに指に硬い箱とライターが触れて、骸はそれを掴み取った。
しっかりと手にその二つを握りながら緩慢な動作でのろのろとベッドから這い出すと、立ち上がった瞬間に視界はくらりと白く眩んだ。

やめてくれ、と思う。足りないものなんて、分かっているのだ。
脳に響く痛みが酷くなって、耳の奥できいんと張り詰めた音がする。
不快感に眉根に皺を寄せながら、骸は鈍る身体を引き摺るようにして寝室から抜け出した。


がらりとリビングの窓を開け放つと、朝の新しい空気が部屋の中に流れ込んできた。
季節上はもう春になったとはいえ、まだ朝の空気はひんやりと冷たく澄んでいる。それは気だるく懶惰に沈む脳の感覚を少しだけ和らげた。
のろのろと這うようにして冷蔵庫を開けると、このところの激務で外食が続いたせいか、すっかり中は空になっている。
骸はがらんとした冷蔵庫の奥に押し遣られた野菜ジュースのペットボトルを掴んだ。
野菜嫌いの彼はこれを好まないから、もっぱら骸だけが消費するものになっていた。
きゅ、とキャップを外してペットボトルを傾けると、赤い液体がとくとくと透明なグラスに満たされる。
窓から差し込む光を浴びて、ジュースはまるでルビーのようにきらきらと輝いていた。
こんなもので煙草の毒が中和されるなんて考える方がどうかしていると思う。それでも少しでも、と無意識のうちに手が伸びる自分を小さく苦笑した。
飽和しそうなほどに赤が注がれたグラスを持ち上げて、骸はその液体を一口含んだ。
舌の上にトマトのきつい酸味が広がる。どろどろとした赤い液体がゆっくりと喉の奥に流れ込んでいくことを感じながら、急かすように舌を動かしてその液体を嚥下する。
液体は酷く渇いた喉を無感動に滑り落ちていった。
喉の渇きはちっとも癒えていない。そのくせ、舌の上に強い酸味が残っている。
内臓は死んだように動かず液体すらも拒絶していて、いっそ吐き出してしまいたいような気さえした。

やめてくれ、と骸はもう一度心の中で呟いた。理由など全て承知している。
この引き摺るほどに懶い身体も、脳に鈍く響く痛みも、えずく喉も、すべて煙草のせいなのだろう。

昨日だけで幾箱空けたか覚えていないほど、気がつけばデスクの上には空き箱が散乱していた。
連日連夜の激務を思えば仕方ないだろう、と自分に言い訳をしてみるものの、そんなものがなくてもやっている人間はやっているのだ。
ボンゴレだとか、了平だとか、千種だとか。
それから、彼だとか。
意識とはまったく対照に手は動いて、骸はのろのろとボックスから一本、煙草を取り出して口に銜えた。
がしゅ、と乾いた摩擦音の後にライターが火を灯す。
その葉が赤く熱を持って燃え始めるのを見届けてから、骸は深く深く煙を吸い込んだ。
えぐい酸味に辟易していた舌の上に独特の苦みが広がっていく。
煙はそのまま気管を伝って、肺の奥深くにまで流れ込んだ。
吐き出した煙は綺麗な空気を一瞬白く濁らせて、開け放った窓からゆるゆると流れ出ていく。
莫迦じゃないの、と言う彼の言葉と、向けられた冷やかな睥睨の視線がひとりでに脳内で再生された。
本当に莫迦なのかもしれないな、と思う。一瞬だけ子供騙しのような遣り方で和らいだとしても、また眩暈と痛みは深くなっていくのだから。
小さく溜め息をついて、骸はもう一度だけ煙草を銜えると煙を吸い込んだ。
半分ほど燃え尽きたそれは幾分かえぐく、苦味は癖が強くなっている。
緩んでいた頭痛の糸がまた張り詰めるのを感じながら、骸は水道のレバーを上げた。
さあ、と心地良い音がして、見る見るうちに水は零れた。曇り一つないステンレスの蛇口から、止め処なくきらきらと透明な水が溢れてくる。
シンクの中に広がった薄い水の膜は、その中に散った白い灰を瞬く間に攫って見えない場所へ連れて行ってくれる。

そっと手から落とした吸殻は、じゅう、と音を立てて冷たい水に呑みこまれた。
小さなシンクの中をぐるぐると渦を巻いて廻る透明な水を、骸はぼんやりと目で追った。
白い灰は水の流れに破砕されて小さな欠片となり、小さな吸殻は水を吸ってもろもろと崩れながら解けて水を汚す。
濁らされた水はゆっくりと円を描きながらその速度を速め、小さな渦は一二度旋回したかと思うと瞬く間に排水溝に吸い込まれていった。
レバーをそっと下ろしながら、骸は小さなシンクの中を覗き込んだ。
そこには灰一つ、葉の塵一つすら残ってはいなかった。透明な水は本当にすべてを呑みこんでいってしまったのだろう、シンクは何事もなかったかのように清潔に輝いていた。
シンクの上に置き去りそうになった煙草のボックスとライターを慌てて手に取って、しっかりとポケットの中に収める。
すべての証拠を隠滅したのを確認してから、骸は換気をしていた窓を閉めた。
空は朝焼けに染まっていた。
淡い青色の中に鮮やかな朱色が色を差して、溶け合うように滲んでいる。
ふと煙の行方が気になって、骸は空に目を凝らした。自分が吐き出した、真っ白く濁った煙。

見上げた高い空は、けれども一点の濁りも見当たらないほど鮮やかに澄んでいた。
当たり前のような事実に安堵の溜め息をゆっくりとつきながら、相変わらず緩慢な重い身体を引き摺るようにキッチンへと戻る。

ふと目線を落として、骸はすっかり置き忘れていた赤いジュースのことを思い出した。
グラスは未だになみなみと赤で満たされていたけれど、飲むことは出来そうにない。
漱いでしまおうと、グラスを手に取ろうとした時だった。


唐突に聞こえたドアの開く音に、心臓は大きく跳ね上がった。
「きょう、や」
呼びかけられた名前に反応して顔をあげた彼は、つい先程まで眠りに沈んでいたとは思えないほど、鋭利な眼差しをこちらに向けた。
切れ長の瞳がはっきりと見開かれて、綺麗な瞳がかちりと骸を捉える。
ずきずきと響く頭痛も、全身に広がる懶さも、そして肌の下を走った動揺も押し隠して、骸は強いてにっこりと微笑を浮かべた。
「おはようございます」
彼は返事をしなかった。ふっくらとした子供のような唇はきつく結ばれたままで、雲雀は不機嫌そうに骸から視線を外す。
ゆるゆると彷徨う視線は飲みかけの赤いジュースを見つけて、彼はそこで視線を止めた。
大きく震える鼓動を感じながら、骸はそっと自分を落ち着かせた。
吸殻は流してしまった。換気はきちんとしていたし、ボックスもライターもポケットの中に入っている。窓も閉めたし、シンクはきれいだった。
ああ、大丈夫じゃないか。
骸はゆっくりと息を吐き出すと、それでもおそるおそる雲雀に向きなおった。
「早いんですね」
彼はやはりその言葉にも応えることなく、何かを逡巡するようにグラスを見つめていた。
淡い黒をした瞳で二三度大きく瞬きをして、それから彼はゆっくりと顔を上げると、しっかりとした足取りでこちらへ歩を進めた。
「何か食べますか。まだ朝食には少し早いですけれど」
にこりともしない雲雀を前にしてまた心拍数は上がっていく。
気づいたのだろうか、いやまさか、と一人で質疑と応答を繰り返して、骸はまた微笑を浮かべた。
「飲み物だけでもいれましょうか。ああ、そういえば君が好きな紅茶が、」


言葉はそこで遮られた。

雲雀は骸の胸倉を掴むと、自分よりも頭一つ高い骸の身体を思い切り自分の方へと引き寄せた。
唐突にバランスは崩されて、ポケットに入れたボックスがライターとぶつかって音を立てる。
不機嫌そうに結ばれていた唇が僅かに開かれたのが視界の端に見えたのが最後だった。
雲雀はその唇で、噛みつくように骸の唇を塞いだ。
忙しなくぐるぐると動いていた脳は、麻痺したように完全に動きを止めた。
繋ごうとした言葉は頭の中でゆっくりと崩壊して、またたく間に消えてしまった。
鮮やかな黒髪が目の前でふわりと空に舞って、緩やかに落ちていく。
まるでスローモーションのようなコマ送りの映像をその目に映したまま、骸はそこに立ち尽くした。
一瞬のような永遠のような口づけから、雲雀はゆっくりと唇を離した。
柔らかな唇はまた結ばれて、きつく下向きの弧を描いていく。
「苦い」

その言葉の意味を理解するまで、大分時間がかかったような気がする。

整った眉を顰めて、雲雀は腑抜けたように立ち尽くしている骸を見上げた。

「吸ってたの」
「な、に」
「煙草」
剣呑な視線が突き刺さる。背中に冷たいものが走るのを感じて、骸は思わずそこに入れたものを確かめるように、ポケットの上からそっと手を置いた。
硬い箱とライターの感覚を確かめるよりも早く、鋭い双眸が不自然に動いた骸の手を追う。

犀利に光る双眸がすうっと細められるのを、骸は見た。

ああ、ばれた。
混乱する脳の中で様々な言い訳がぐるぐると駆け巡る。
「ええっと、あの、違うんです」
まともな申し開きすら思い浮かばずに、唇は意味のない言葉の羅列を口走る。

「そうじゃなくて、あの、これは」
けれどもこれは、に続く言葉がちっとも浮かんでこなかったから、骸は仕方なく唇を閉じた。
そんな骸の様子を見つめながら、雲雀は胸倉から手を解いた。
するり、と呆気なく白い手は離れていく。
「顔色は悪いし、ふらふらしてるし、眉根に皺寄ってるし」
「え、」
「ほんと、莫迦じゃないの」
大きく溜め息をついて、雲雀は呆れたようにそう呟いた。
詰っているはずの言葉は、けれども何故だか穏やかに耳を打つ。
不機嫌そうな彼の唇は可笑しなくらいに柔らかく、その雑言を模していた。

「煙草なんて、やめろ」

腑抜けたようにそこに立ち尽くす骸に、雲雀は指を立てて見せる。

長い人差し指はそのままこちらへ伸ばされて、骸の眉根をこつんと小突いた。

「じゃないと、もうキスしてあげないよ」

もう一度頭の中でその言葉を繰り返して、骸は息を止めた。
キス、だなんて甘い言葉にはあまりに不似合いな声だった。
正直な苛立ちが端々に滲んでいたし、声は素っ気無いと言っていいほどに鈍い低さを持っている。
けれども、その温厚とは言えない声で発声された言葉が優しい戒めであることに、骸はようやく気がついた。
茫然としている骸に背を向けて、雲雀はぺたぺたと歩きだした。
振り返りざまに彼が僅かに微笑したような気がしたけれど、それは自惚れかもしれない。
その後ろ姿がリビングの扉の向こうに消えていくまで、骸は立ち尽くしたまま、その姿をぼんやりと目で追っていた。
心臓の音は一秒ごとに速くなって、その鼓動を増している。

耳朶が熱いような気がした。熱で浮かされた頭でも、理由など分かっていた。
優しい言葉と、不似合いな台詞が耳の中で反響している。反芻された言葉はじわりと体の奥の奥に染み込んで、ことりと音を立てて落ちた。

ぷつり、と耳の中で糸が切れた音がして、緊張が途切れた身体は途端に脱力する。

怠惰に沈む身体に任せるままに、骸は壁を伝いながらずるずると床にしゃがみこんだ。

「あーあ・・・」

冷たい床の上で膝を抱え込みながら、溜め息のような声はひとりでに漏れた。

どくん、どくんと早鐘を打つ心臓の音が煩いほどに聞こえている。彼に小突かれた眉間をそっと指で触れながら、骸は膝を抱えた腕の中に顔を埋めた。

彼の眼にはとっくに見抜かれていたのだ。隠していた煙草も、そのせいで頭を擡げていた頭痛も、依存していた自分も。
ああ、莫迦だ。
のろのろと指を伸ばしてポケットの中に手を入れる。指先にすぐに固い箱が触れて、骸はそれを引き摺り出した。

ボックスは封を切ったばかりだった。中にはまだ白いままの煙草がたくさん残っている。
けれどもそんなことはもう取るに足らないことだった。
もう、いい。もう、こんなものなんて。
握った手に力を込めると、箱はぐしゃり、と音を立てて手の中で潰れた。
喉の奥はまだひりひりと餓えて毒を求めていたけれど、もう未練などなかった。

早鐘を打つ鼓動を持て余しながら、骸は大きく大きく、溜め息をついた。




禁煙、しよう。















わたししか萌えない話(のくせに捧げもの)
余裕のあるひばりともだもだしている骸も好きです

p.nのにゅうさんへ!