そのことばをしらないこ


                                   
side-Hibari






「ああ、随分に手酷く噛まれましたね」
膝の上に雲雀を座らせ衣服を脱がせた骸は、他人事のようにそう言って微笑した。
そっと肩に添えられていた手がなんの頓着も見せずに離れたことに、雲雀は愕然とした。
宝石のように光る赤と青の瞳は、その赤い痣の痕の意味も、それに至る過程も、すべて見透かして認識しているのというのに、贋物めいて整った面差しはこれっぽっちも揺らがない。
舌の上にじわりと苦みが生まれて、一面に広がってゆく。
動かない舌を叱咤して、雲雀は骸に気付かれる前に
、懸命にそれを押し殺した。



問い詰められるべき雲雀の行為をその赤と青の瞳が悟ったときも、骸はちっとも感情をぶれさせなかった。
骸は俯いたままの雲雀を糾弾することも、そこにはいない山本を言葉で詰ることもしなかった。
ただいつもの微笑を浮かべたまま、彼は静かに嘆息した。
「恭弥」
びくりと肩を震わせた雲雀を、華奢なつくりの手は宥めるように慰撫した。
雲雀と同じ目線まで屈み込んだ骸は、にこりと悪意のない笑みを浮かべた。
「山本くんに、すこし教えてあげましょう」
ね、という形だけ念押しする弱い語尾に、雲雀はじっと一点だけを見つめていた。
そっと骸が立ち上がって、雲雀の腕を捕らえてやわらかく押さえつける。
肌に強く触れられる唇は、飽くまで傷つける意思をもってはいない。
首に、肩に、背中に。そして優しい牙は、最後に薬指にむかれた。
その牙のくちづけに、感情が溶かされた温度を感じようと、雲雀は必死で神経を集中させた。
少しでもいい、いっそその温度が憎悪や嫌悪であってもいいとさえ願ったのに、ささやかな祈りはかなわなかった。
空虚に触れるくちづけはゆるやかにこの肺を押し潰して、不似合いに真っ白な混濁の中に、意識はゆっくりと堕ちていった。

「恭弥」
軽やかな声が過去の記憶に沈む僕を呼び戻し、優しい手が恋人にするように頬に触る。
真っ赤な血の色をした唇は飽くまでやわらかく、大切なものに触れるように唇を食んだ。
それでも残虐な甘い行為が与えるものは、何もない。
芝居めいた微笑も温度もなく触れる肌も、彼の感情を欠片も映し出さないのに、幻想のように空虚なくちづけは雲雀の感情だけをいたずらに掻き乱す。

くちづけを享受しながら、雲雀は手のひらに広がる罪を思った。
少年のきらきらした目を持つ人の心を踏み躙ってまで犯した裏切りは、しっかりとこの手に刻み込まれている。
けれどもいつの日か報いを受けるその行いですら、
ほんの少しこの絶望の色を濃くしただけだった。
蒼色の絶望の中で藻掻きながら伸ばされるこの手を、彼は離そうとはしない。
けれど、その手は掴みあげようとも、握り返そうともしないのだ。
それでも彼の手を振り払うことは出来ない。出来るはずもない。
手離してしまったら、呼吸が出来なくなることを知っているから。


頬を伝う生温い水の音に彼もきっと気がついている。
けれども、優しい唇は雲雀の呼吸を止めることだけに集中していた。

落とした目蓋の裏に滲んだのは、あまりに純粋な絶望だった。