死ぬべきは恋

                   side-Yamamoto








水曜日の、深夜0時。
毎週決まった曜日の決まった時間であるのは、あの男が出張と会議に追われている日、だから。
自室の扉を誰にも聴かれないようにそっと閉めて、ほんの数歩しか離れていない彼の書斎の扉を小さく叩いた。
その問いかけに決まって返答はなく、けれども鍵は開いていることを知っている。
躊躇うことなく手を掛けて扉を開くと、案の定彼はデスクの前の椅子に腰掛けたまま、ぼんやりと空を見つめていた。
「ヒバリ」
声をかけてもその瞳がこちらを見ることはない。
いつも繰り返される無音は、いつまで経っても慣れることが出来ずに、心にざわりと細波を起こす。
敷き詰められた絨毯を大股で踏みつけて、山本は椅子に座る雲雀の腕を取った。
抵抗をしない腕が、それでも決して望まない動きでのろのろと緩慢に力に従った。
ヒバリ、ともう一度名前を呼ぶと、彼は初めてこちらを向いた。
けれどもその黒曜石の瞳はいたずらに仄暗く輝きながら、全く自分など見ていなかった。
虚ろな癖にしっかりと据えられた目がこちらを向く度に、山本は絶望を知る。
決して自分を映さない彼の双眸の淡さと、それでも手を伸ばす自分の愚かな肌の色に。
ひく、と喉が痙攣するのを努めて押し殺しながら、山本は強いて冷静に、雲雀のワイシャツのボタンをひとつひとつ外していく。
彼はまた睫毛を伏せてきれいな瞳を覆い隠したまま、されるがままになっていたけれど、その無垢で狡猾な肌の上に現れたものに、山本は息を呑んだ。
「なに、これ」
真っ白な肌は、赤い痣に埋め尽くされていた。
襟元にぎりぎり隠れる位置から袖にかかる手首まで、満遍なく紅い花が咲いたように彼の体を蝕みながら、痣のひとつひとつが意思を持ってあの男の意図を雄弁に物語っていた。
問いただそうとした彼は、空虚な目の色に睫毛を落としてじっと一点を見つめたまま、ぴくりとも動かなかった。
ぞわりと毛を逆撫でる、気づかれた、という焦燥が背中から這い上がってくるのを感じながら、けれども同時にふつふつと沸き起こった感情を優先して体は動いた。
半ば無理矢理に雲雀を後ろ手に捕らえて、首から肩へ、肩から背中へ、男が付けた痣の跡を辿りながら、それを塗り潰すように同じ場所にくちづけていく。
きっとあの男はもっと大切なものを扱うようにくちづけたのだろう、と思うと、やわらかな肌に噛み付く歯は余計に鋭くなった。
彼の唇はその間中、言葉一つ発せずに沈黙を守っていたけれども、ふと目を遣った白くなるほどに握られた左手からは緩やかな拒絶が読み取れた。
そのまま目を逸らして黙殺することは出来なかった。
男のくちづけの跡に似通ったその左手の饒舌さは、山本を苛立たせるのに十分だった。
握られた彼の左手を形だけ優しく包み込むと、その肩が僅かに、けれど不自然に震える。
一度も裏切られたことのない直感が心を掠めて、考えるよりも早く自分の指を彼の指の間に割り込ませる。
「やめ」
抗いの言葉は言い切るほどの強さを持ってはおらず、華奢な指を開いてしまうのは思っていたよりもずっと容易だった。
強制的に抉じ開けた手のひらを押し開いて見たものに、山本は息が詰まるような錯覚と果てしない眩暈を覚えた。
やわらかな手のひらの中にあったのは、薬指の根元に付けられた、いとおしむような深い歯の跡、だった。
身体の中で沸いていた感情が色を変える。
霧に包まれていた不鮮明な荒い感情は、奥底から引き出された滾る憎悪にも似ていた。
力任せに引き寄せた彼の手は、強固で明白な拒絶の意思を持って束縛から抜けようと藻掻いた。
「離せ、」
「ヒバリ」
「やめろ・・・!」
「おまえは、卑怯だよ」
彼の抵抗は止まなかったけれど、泣き出しそうに歪んだ唇が模した言葉は、しってる、という囁きになって耳に届いた。

薬指のちいさな傷へのくちづけは、甘い血の味がした。




死ぬべきは恋(title05/エナメル)