淡い色をした桜の嵐、静謐な音の洪水、繰り返される暴力。
色を失くしたコンクリートに落ちる真っ赤な血、無理矢理に吐き出された吐瀉物、不似合いなほど美しい男の笑み。
それから、慈しむような、男の声。
たったそれだけに支配されていた世界は、唐突に終わりを告げた。

「お別れです」
うつ伏した雲雀の傍にそっと膝を折ると、溜め息のような音で男はそう、呟いた。
綺麗な指が吐瀉物と鮮血に塗れた床に触れるのを、雲雀は硬い床に体を沈めたまま見つめていた。
白が深くなったような、どことなく褪せたような色を持つ指がそっと床を離れる。
視界の枠を外れて、同時に頬に触れる冷たい温度を感じた。
体を起こそうとして、けれども肩にも腕にも力が入らない。
感覚が掴めないまま力は散って、僅かに痙攣するように指が震えた。
「彼らを甘く見過ぎていたようです。もう少し、時間はかせげると踏んでいたんですけれどね」
男が指す「彼ら」が誰を示しているのか雲雀には皆目見当もつかない。
けれども澄んだ声はこの空間に溢れて、耳の中に流れ込んでくる。聞きたくなどない。
それでもその声を拒絶するすべを知らずに、硬い床に体を沈めたまま、眼だけを動かして男を見上げた。
穏やかな面差しを浮かべる男は冷静に雲雀の視線を受け止めて、そうしてまるでいとおしむかのように双眸を細めた。
吐き気がするほどに美しく、目の裏に焼き付くほどに見慣れた微笑。それでも
その笑みは雲雀が知るよりも、どこか憔悴の色に翳っているような気がした。
「行かなくてはなりません。見つかると厄介ですし・・・それに、二人ほど逃がさなくてはならない人間がいるのでね」
頬に触れていた指はそっと動いて、頬に残る暴力の跡を撫ぜた。ひんやりとした感覚が腫れた傷口に伝わって、熱と痛みがゆっくりと遠くなっていくのが分かった。

この部屋の中で、幾度も繰り返された行為だった。男は自らが刻みこんだ傷を慰撫するようになぞりながら、決まって悲しげにその二つの眼を伏せた。
矛盾したその行為の理由は、未だ見えない。それでも悲痛な色をした双眸の色は眼の裏に焼き付いて、小さな渦を呼び覚ましては感情をゆっくりと濁らせていく。
不可解な感情は行き場を失くして、ぼんやりと不快感だけが胸の奥に霧をかけた。
不意に、ゆっくりと傷を辿っていた指がその動きを止める。
見つめた男は暗い翳をその眼に落としたまま、おもむろにその目線を上げた。

薄く色づいた桜の花は相も変わらず、灰色の天井を覆い隠すほどに咲いていた。
意識の中に入り込んだ淡い色が神経を麻痺させる。
逃げ場がないこの牢獄の中で、美しい花弁はまるで雨のように降り注いでいた。

「この桜が消えれば、君はまた立ち上がれる。君を縛り付けるものなんて、何もなくなる」
桜の雨の中で、男は静かに呟いた。
ともすれば聞き逃してしまいそうなほど、小さな声だった。
「だから、悪い夢であったと。そう、思ってください」
咲き狂う花からそっとその視線を戻して、男は静かに微笑んだ。
雲雀恭弥、と慈しむ音で自分の名前が呼ばれるのを、聞いた。
「さようなら、」
静かに頬に触れていた指が、ゆっくりと動き始める。氷のような温度が少しずつ遠くなっていく。肌の向こうに隔たった感覚の乖離に、眠っていた傷はまた熱を持って痛み始めた。
離れていく。この手が、この声が、この男が。
そう思った瞬間、雲雀は、男の手を掴んでいた。
無理矢理に動かした手は内側で傷ついているらしく、加減を忘れた手は力を込めるごとにぎりぎりと痛んだ。それでもその力を緩めることなど出来ずに、雲雀はその指が白くなるほど力を込めて、その無抵抗な手を扼して離さなかった。
「ふざけるな、」
大きく瞠られた硝子の瞳を睨み据えて、雲雀はそう吐き捨てた。押さえつけてきた苛立ちと不快感は喉の奥から沸き起こる。
舌を走らせるのは、制御できない衝動だった。
「そんな勝手なこと、通ると思うなよ。桜のせいにして逃げるなんて、ふざけるな。冗談じゃない。ここから逃げるなんて、僕は絶対に許さない。桜がなくなったって、消えるわけないだろ。消してたまるか。悪夢なんかにして、たまるか」
整った面差しが苦しげに歪んでいくのを、雲雀は睨みつけていた。
なぜ男がそんな顔をするのか分からない。分からないまま判然としない感情は胸の奥にぐずぐずとつかえて、その質量を増している。
得体の知れない苛立ちに駆られて、雲雀は叫んだ。
「都合よく忘れてたまるか。勝手なこと言うな。僕は絶対に忘れない。僕が受けた屈辱を、全部。いつか殺してやる。君だけは、僕が殺してやる。絶対に」
そこまで一気に吐き出して、息苦しさに雲雀は大きく喘いだ。
無理に力をかけていた腕が限界に達して、軋むような痛みが手に走る。思わず緩めた手は男の手を滑り落ちて、コンクリートの硬い床の上に呆気なく落ちた。
動かない体を叱咤して視線だけを上げると、視界の端に映った男は綺麗に整った眉を寄せて、静かに雲雀を見つめていた。
男は悲しげにその眼を伏せると、ゆっくりと首を横に振った。
「それでも。僕は行かなくてはなりません。いくら君に卑怯だと罵られても、逃げたと罵倒されても。しなければならないことが、あるんです」
けれど。伏せていた眼差しを持ち上げて、男は静かにそう呟いた。
血に塗れた無垢な両手がゆっくりと、どこか臆病な仕草で伸ばされる。真っ白な手でそっと雲雀の頬を包みこんで、男はまるで祈るかように一言一言言葉を紡いだ。
「もしも君が、この日のことをずっと覚えているのなら。君がその純粋な憎しみをずっと抱き続けてくれるのなら。僕はまた、必ず君の前に現れると約束します。それが五年先のことになるか、十年先のことになるか、今はまだ分かりません。もしかしたら今のこの姿ではないかもしれません。それでももし君がずっと僕を憎んでいてくれるのならば、僕はもう一度必ず君の前に現れます。そうしたら今度は僕を、」
男が何かを言い終えるよりも早く、扉の外から僅かに足音が聞こえてきた。
瞬間、男がはっきりとその面差しに緊張を走らせたのを、雲雀はみとめた。それが彼が指す「彼ら」であることは想像に難くはなかった。
押し殺した焦燥を滲ませた声で、けれども男はいつものように微笑をして見せた。
「時間です。もう、行かなくてはなりません」
「そうやって逃げるなんて、卑怯だ」
「ごめんなさい」
胸の奥で燻っていた混沌とした感情はゆっくりとその重みを増して、喉を塞いでいる。
何故だか泣き出しそうになって、雲雀は大きく息を吸い込んだ。
どこかで分かっていた。この男の前に膝をついたあの日から、もう時は止まってしまっているのだと。進むことも戻ることも出来ないまま、モノクロームの世界に縛り付けられている。桜が消えたからといって立ち上がれる訳もない。傷が癒えたからといって忘れられる訳もない。
この男の声が、言葉が、指が、温度が刻みこまれた記憶の中で、身動きなど取れるはずもないのだ。
男はそんな思考をすべてを見透かしたように、その偽物めいた二つの眼をやんわりと細めて雲雀を見つめていた。色を異にした眼は真っ直ぐに雲雀を捉えたままで、それでも頬に添えられていた手はゆっくりと離れていく。その手が今度こそ戻らないであろうことを知っていた。
「いつか、必ず」
視界を遮るように綺麗な手が下りてくる。洪水のように降り注ぐ桜が、柔らかな暗闇に遮られていく。
忘れてたまるか。そんなことあってたまるか。暗転する世界の中で幾度もそう繰り返したけれど、言葉は喉の奥でつかえたままだった。



最後に見えたのは、何かを囁いた男の悲しげな微笑だった。







最後の日