※山本視点むくひば




彼が自身の空間を侵されるのを嫌うことを知っていた。
書斎にしても、自室にしても、自らの内側にしても、彼は踏み込まれることを極端に嫌った。
だから返事の返ってこない扉の前で、山本は彼に渡す書類を抱えたまま立ち止まったのだ。他の人間の部屋ならば開けてしまうであろう扉を、もう一度だけ叩いて彼の名前を呼んだけれども、返事はなかった。
一瞬思考は躊躇いに揺れて、それでもドアノブに手を掛けてしまったのはそこに甘い自惚れがあったからだ。
自分ならば許されるのではないか、と。





たとえば破るための約束でも




黒いソファに横たわったまま、その人は眠りに沈み込んでいた。
その格好は、彼のいつもの印象からは少し遠いものがあった。ワイシャツの襟は鎖骨が覗くほどに外され、黒いネクタイは押し下げられて緩められている。脱ぎ捨てられたジャケットが、椅子に無造作に放り投げられていた。
色を失った白い頬は、出掛ける前よりも少しばかり細くやつれていた。色褪せたような色をした肌に、疲労がはっきりと透けて見える。皮膚の薄い下目蓋には淡い隈が見て取れた。
長い睫毛は漆黒の色をしていて、下目蓋にかかるほど濃い影をつくっている。切れ長の目は閉じられたまま、少しも開く様子見せなかった。
憔悴の色が浮かんだ彼の表情は、不思議なことにまるで魂を吹き込まれた美しい彫刻のようだった。いつものような険も、触れられないような鋭さもない。
それでも僅かに開かれた唇からは吐息が零れ落ちていて、それだけが彼の生を知らせている。組まれた両手が乗せられた薄い胸が、呼吸と同時に規則的に上下していた。
その手に書類を抱えていることも忘れて、山本はゆっくりと膝を折って屈みこんだ。するりと腕から紙の束が擦り抜ける。耳障りな乾いた音を立てて床に書類が散って、それでも彼は昏睡したように目を覚まさなかった。
触れられそうで触れられなかったもの。何度手を伸ばそうとしたか知れない。何度言葉にしてしまおうとしたか知れない。けれども脆い関係が壊れてしまうのが怖ろしくて、だからその度に臆病な指は静かに下ろされた。
大きく瞬きをして、息をそっと殺して、山本は眠るその人をそっと覗き込んだ。鼓動は耳にまで響いて、喉に詰まるほどに苦しい。
急き立てられた感情にかられるままにそうっと手を持ち上げて、けれどもせめぎ合う恐怖に山本はびくりと指を震わせた。その感情はどこかこれから起こるかもしれない後悔にも似ていた。


一人を好むように見えた彼は、それでも自分に甘かったと思うのは自惚れなのだろうか。

彼が自分との間にとる一定の距離は、感情に絆されることがない代わりに、なされる干渉を拒絶することもしなかった。一人で昼食をとる彼の隣に腰を下ろしても、雲雀、と無造作に彼の名前を呼んでも、冗談めいた調子で夕食に誘っても、雲雀はそれを振り払うことをしなかった。
その代わりに彼は唇をきれいな曲線に上げては、いつでも呆れたように呟いた。
また君か、と。
温い受容の言葉は、けれどもとても甘やかに聴こえた。その音を紡ぐのが彼であり、その言葉は自分だけに向いていたから。
たった五つの音はあまりに素直に耳の中に落ちては幸せで心を満たし、そして同時に奥で押しとどめていた感情を残酷なまでに抉った。
いっそ拒絶をしてくれるのならば、こんな感情など殺してしまうことは容易かった。
他の人間にも甘さを見せるのならば、こんな感情など手離してしまうことは容易かった。
そうしてくれたら、どれだけ楽だったかと思うのに。
やわらかな微笑を向けられるたびに、心臓は大きく跳ねた。穏やかな険のない声を耳にするたびに、小さな期待に心は震えた。振り下ろされない得物の意味を思うたびに、苦しいほどに胸は締め付けられた。
彼の振る舞いも、言葉も、いたずらに感情を掻き乱しては山本の心を括縛した。


ふ、と見つめた手は小刻みに震えている。
十年間心の奥底に抱き続けた感情は、今にも腕から零れ落ちそうだった。溢れそうになる想いを押し殺し続けて生きていくことは、もう出来なかった。
鼓動はどくどくと速まり続け、息を詰まらせる。境界線の上で揺れる指は恐怖に色付いていて、それに気づいているから指を引きそうになる。それでも躊躇いに揺れる指を必死で押しとどめて、山本はおそるおそる、その指を真っ直ぐに伸ばした。
たった一度。そう、たったの一度だけ。
その長い睫毛が震えてしまうよりも早く、山本はそっとその両目を右手で覆った。
心臓が早まる音が体中に響いている。彼に聞こえているのではないかと思うほど、大きく、痛いほどに、鼓動が波打っていた。
そっと、息を殺して顔を近づけていく。うっすらと開かれた小さな口は、まだ静かに呼吸を繰り返している。
心臓が止まるような気がした。
静かに息をするその唇を塞ぐように、呼吸を呑み込むように唇を合わせた。
温度の低い、柔らかな感覚を、どこか隔たったところで感じる。
それはきっと一瞬の、時間にすればほんの僅かな出来事だったのだと思う。耳鳴りがぐるぐると頭の中で渦巻いていて、殺していた息が唇から漏れた。
そっと、おそるおそる唇を離したとき、薄く開いた唇が微かに動くのを山本は見た。
胸の上に置かれていた手がぴくりと動く。それは僅かに戸惑ったように揺れて、それからゆっくりと自らの視界を塞ぐ山本の手へと伸ばされた。
一瞬にして身体が竦んだ。
最初に予感のように過ぎったのは、否定の音だった。鋭い目が開かれて、はっきりとした拒絶の色が示されるのではないかと、山本は息を呑んだ。
けれども彼の手は、硬直した自分の手を振り払うことをしなかった。
それどころか、柔らかく、どこか愛おしむような仕草で、彼は視界を遮る手をそっと包み込んだ。
きれいな形をした口角が持ち上げられて、幼さすら感じられる声を紡いだ。
「分かってるよ。また、君なんだろう」
お伽噺もいい加減にしなよ、眠り姫じゃあるまいし。なめらかな喉の奥でくつくつと可笑しそうな音を立てて、彼は笑った。
予想だにしなかった。決して越えることの出来なかった最後の境界を、決して踏み入れられなかった彼の隣を、自分は許されたのだ。十年間想い続けて、それでも叶うことなどないように思えたその場所を。
それは奇跡のように思えた。触れることすら禁忌だと、自分を戒めてきたのに。
感情が込み上げてくる。ひばり、と名前を呼ぼうとしたその時、寸分早く彼の唇が動いた。
「いつまで目隠ししてるつもり。悪戯はもういいだろう」
自分の手をやんわりと押し退けるような仕草をして、彼は笑みを模ったまま名前を呼んだ。
「ねえ、骸」



その言葉の意味が呑み込めなかった。それでも、それは確かにあの男の名前だった。赤と青の目をした男の、人好きのする柔らかな笑みを浮かべる男の、自分が大嫌いなあの男の。
彼は、あの男の。
引き攣れるように喉が鳴る。白くけぶるように視界が歪んで、くらりと眩暈が落ちてくる。意識が黒く塗り潰されていく。足元からぐらついて崩れ落ち、もう前に進むことも、後ろに戻ることすら出来ないことを予感のように知った。
自分の手に絡めるように指が伸ばされる。じゃれあうようなやさしい仕草で、彼は視界を遮る自分の手を外していく。
それはまるでスローモーションのようだった。長い睫毛がゆっくりと持ち上げられる。切れ長の目が開いていく。淡い色をした眼差しに自分が映り込む。
きれいな瞳を大きく瞠って、彼は言葉を失った。


たった一度。たったの一度だけ。
その手を伸ばさなければ、夢を見ていられたのに。