倒錯


唇から零れた嘆息が耳に届くのと、鋭い痛みが耳朶に走るのはほぼ同時だった。
「い、た」
骸はゆっくりと体を起こしながら、抗議めいた台詞を口にした雲雀を見下ろした。
口元に浮かぶのは気味が悪いほどに穏やかな微笑だったけれども、その赤い右目には青い炎が灯っている。
唇に色を差す鮮血を長い指で拭うと、骸は低い笑みを漏らした。
「自業自得ですよ」
吐き捨てられた骸の言葉は雲雀が犯している行為に勘付いている。
緩やかな糾弾に雲雀は唇を弧にえがいてみせた。


今週関係したのは誰だったのだろうかと思考を巡らせる。
バーで出会った男、出張先のカフェのギャルソン、人数どころか顔すら思い出せないまま、肌に幾人もの男を刻み続けた。
はっきりと覚えているのは週の最初に扉を叩いた上司。
彼は深夜の来訪者に対して、どこか諦めたような色を浮かべて苦笑した。
あまやかに光る琥珀色の瞳がこちらを向く。
仕方がない人ですね、と呟きながら、彼はそっと椅子を立ち上がった。
ネクタイに手を伸ばした彼の薬指を、銀のリングが締め付けていた。
きらきらした飴色の髪の男との情事も覚えている。
毎週の定例会議と称されるそれは、男が部屋に上がりこむ口実でしかない。
同盟ファミリーのボスである彼は扉に鍵を掛けるのももどかしげに、会いたかった、と甘い声で囁きながら口づけを繰り返した。
信頼しきった男の思い込みは愚かしい。けれど、同時に向けられる実直な感情は満足感で体を震わせた。
ヒバリ、と自分を呼び捨てる男との関係は学生時代からの惰性である。
快楽に意識が溶け始めたころ、毎回決まって届くのは、俺だけじゃないんだろうという糾問だった。
情事のたびに繰り返される遣り取りは莫迦げている。煩わしい、体だけでいいのだと心の中で呟いた。微温湯のようなこの関係は一定の温度を保たなければならないのだから。
休日には関係したのは部下である男だった。
普段よりも幾分厳しい声色で哲、と名前を呼ぶと、彼はいつも戸惑ったような表情を浮かべる。
それでももう一度低い声でその名前を繰り返すと、彼は誠実な色をした瞳を伏せて、はい、と呟いた。
関係を結んでから随分経つというのに、彼がこの行為に慣れることは決してない。
掛け衿を肌蹴させる手は、絶対的な忠誠を裏付けるように小さく震えていた。




ぷつり、とそこで記憶は途切れてあやふやに霧がかかりはじめる。
もう思い出せないよ。そう言って唇に笑みを乗せる雲雀に、骸は無造作にすうと手を伸ばした。
「この口で他の男を誘ったんですね」
「そうだよ」
「この口で、組み伏せられた腕の下で喘いだんですね」
「そうだよ、むくろ」
右目に燃える炎が感情のままに勢いを増すのを捉えて、雲雀は恍惚に目を細めた。
それでいいのだ。すべてこの為なのだから。月に数度しかない、この男と体を重ねる日の為だけに、幾人もの男と情事を繰り返してきているのだから。
「ならば喉を切り裂いて差し上げましょう。二度とそんなことが出来ないように」
ぐ、と顎を掴む骸の手は荒々しく冷静さを欠いていて、形だけ柔らかく紡がれる言葉は内側に滾る激昂を隠している。綺麗な楕円をしていた双眸は、首筋につけられた痕跡を認めて忌まわしげに歪んだ。
体中に浴びせられる、痛みにも似た嫉妬を享受しながら、雲雀は目蓋を落とした。
顎を掴む力が強くなるのを合図に、反り返る喉に牙が剥かれる。
愚かなほどに柔らかな皮膚は裂かれ、ゆっくりと内側に牙が食い込んでいくのを痛覚で知った。




もっと、制御の利かない感情に苛まれればいい。
すべてを見透かしてしまう瞳を憎みながら、その人形めいた顔を歪めればいい。
くつくつと喉で笑いながら、雲雀は呟いた。



ああ、楽しい。










むくろに嫉妬をさせたいがために誰とでも寝るひばり(・・・)
でもその実むくろはひばりの意図もすべて見透かしていて、あえてお芝居に付き合ってあげているという<一枚上手な裏設定の十年後むくひばでした