まばたきの間に




「ひとつ・・・ふたつ・・・」
荒廃した無機質な部屋に澄んだ声が響くのを、冷たい床にうつ伏しながら聞いていた。
呟かれた声は大きくはなかったが、それはコンクリートの壁に包まれた物の無い部屋の中で反響し、増幅され、奇妙なほどに良く聞こえた。
その声は、耳馴染みの良い音をしていると思う。
確かにその音域は変声期を過ぎた男のものなのだけれど、濁りやざらつきのない滑らかさは、寧ろ女性のそれに近い気がする。
素直に綺麗だと思える声だった。
もし、その声がこの男のものでないのならば。
「みっつ・・・よっつ・・・」
うたうように続けながら、男はそっと肩の傷に手を触れた。
ひんやりとした感覚が熱を孕んだ傷に伝わる。
咄嗟にその手を振り払おうとし、けれどそれはかなわなかった。
粘土のように固まった舌は動かないから、雲雀は心の中で舌打ちをする。
「いつつ・・・むっつ・・・」
抵抗がない体を、冷たい指がするすると不躾に這い回る。
傷から傷へ、次々と。
触れられるたびに、傷が思い出したようにしくしくと痛んだ。
ほんとうに、ほんとうにほんとうに忌々しい。
この不快な愛撫も、この奇妙に冷たい指も、皮肉なほどにうつくしい声も。
「ななつ・・・やっつ・・・」
無遠慮に動き回っていた指が、何の前触れもなく腕の傷口に食い込んだ。
ぶつりと皮膚が裂ける音がして、凝血し塞がりかけていた傷口を細い指が抉る。
鈍い痛みが腕を突き刺し、生暖かい液体がどろりと傷から零れた。
「ここのつ・・・」
衣擦れの音が聞こえて、男が動くのが分かった。
一瞬の後、鳩尾に重い革靴がめり込んで、うつ伏していた体を強制的に仰臥させられる。
加減を知らないそれは呼吸器官をぎりぎりまで圧迫し、空気を求める口はひとりでに喘いだ。
意思によらない屈辱的な涙が浮かんだ目に、ぼやけた男の姿が映る。
ああ、またこの男の顔を見なくてはならない。
忌々しい微笑を浮かべるこの男を。
「とお」
うたうように終わりの数字を呟いて、暈ける視界の中で男はにっこりと微笑んだ。
「飽きてしまいました」
溢れすぎた涙が頬を零れて、途端に男の顔がはっきりと輪郭を持つ。
視界いっぱいに占める男の顔は、ぞっとするほどうつくしかった。
欠けるところが何も無いその完璧な顔を微塵も崩さずに、男はのんびりと笑みを浮かべている。
「もう、十日目なんですよ。君がこの牢獄のような廃墟で、僕の前に無様に這い蹲り続けてから」
にっこりと微笑んだ男は、やさしい声でうたうように言った。
「そんなに意地にならないで、いいのに」
ざり、とアスファルトが擦れる音がして、彼の足が動くのが分かった。
瞬きをするよりも早く、その靴先が腹部に抉るように入れられたのが視界の端に映る。
この二つの瞳が他人事のようにその映像を映してから、随分空白の時間があったように思う。
緩慢な感覚がようやくそれに追いついたのと同時に、圧迫された胃から吐瀉物がせりあがってきた。
苦く生ぬるい体液はひどく不快だったけれど、必死に舌の奥に抑え込んだのは、目の前に立つこの男への出来る限りの抵抗だった。
けれども、頭上遥か上に見上げた彼は、その様子をおっとりと見つめていた。
見つめながら、吐き気がするほどに甘ったるい微笑を浮かべていた。
そしてなんの躊躇いもなく、彼の左足はまた持ち上げられる。
もう一度鳩尾を蹴り上げられ強制的に促された痙攣は、喉に押し留めた胃液を口から吐き出させた。
頭上で彼がちいさく笑う声が振ってくる。
「いくら祈っても、かなわないものがあるんです」
自らの吐瀉物に噎せ返る雲雀を見つめながら、男は高いところで柔和な笑みを浮かべている。
「君はまだ、それを知らないんですね」
その声には嘲りと、哀れむような、同情の色が浮かんでいた。
そんなもの、ない。
この脚は、弱者の屍の上に立っていた。
この目は、誰にも曇らされなかった。
祈りは支えを求める弱者のものであって、自分のものではない。
だからかなわないことなんて、あるはずがない。
そう叫びたかったけれど、ひどく飢えて渇いた喉から声が出てくることはなかった。
なんの答えも返さない雲雀の前に、彼の問いかけは独り言として完結する。
男はほんの少し悲しげに睫毛を伏せると、そっと雲雀の頭上に屈みこんだ。
白い手を視界の端に捉える前に過去の経験が蘇って、殴られる、と思った。
彼の手は確実に自分の手とは一線を画していた。
節々が目立ち荒いつくりのこの手とは違い、彼の両手は石膏の作り物めいてうつくしかった。
暴力のために生まれたのではないその手の力の振い方は、だからこそまるで無垢な子供のようだった。
加減を知らず、その使い方も知らない。

不意に視界にその手が映って、唇は血の味を舐める覚悟を決めた。
その代わりに反射的に目蓋が閉じそうになるのを押しとどめて、雲雀はその手を睨み付けた。
この男から与えられる恐怖で目を閉じるのがひどく癪だった。
殴りたいのなら殴ればいい。
だた、この目だけは閉じてやらない。何をされても。
睥睨の視線に男はちいさく息を呑んで、おろしかけた手をぴたりと止めた。
一瞬驚いたように見開かれたその目は、けれどすぐに見慣れた表情のない微笑へと変わる。
ゆっくりと落とされる手が再び近づいてきて、視界をじわじわと侵食していく。
顎を引いて睨み据えたその手は、けれど暴力に滾るものではなかった。
細く繊細な手は静かに眼窩に落とされ、そしてそっと、まるでいとおしむかのようにそっと、窪んだ骨をゆっくりと撫ぜた。
「ずっと不思議だと思っていました。どうして僕は、君を殺してしまわないのだろうって」
二つの赤と青の目が、僅かな光を受けて薄暗くかがやきながらこちらを向いた。
長い睫毛がそっと被せられ、二つの相反する色は深く色付いてゆく。
独り言を呟きながらゆっくりと目の端を辿っていく手は、ちっとも温度がなかった。
「でもね、ようやく気づいたんです」
手は静かに頬に添えられて、男はその向こうで嫋やかな笑みを浮かべた。
「僕は、君の目がとても好きなんだと思います」
そういう彼の双眸は、彫刻家が丹精を凝らして彫った彫像のそれだった。
僅かな歪みすら感じられない完璧な楕円も、すべての感情が沈み込んだような深い色をした二つの宝石も、人間が持つものではなかった。
こんな目を持つ人間が、どうして他人の目に焦がれるというのだろうか。
けれども男はそのうつくしい瞳をすうっと細めて、恍惚に沈んだ声で呟いた。
「ほんとうに、きれいな目だから」
目の縁を辿っていた指が、下目蓋でぴたりと止まった。
「じっとしていて、ね」
念を押すように言うと、男は触れる親指に軽く力を込め、雲雀の左目を剥き出しにした。
えぐ、られる。
彼の意図に気が付いた瞬間に、これから起こるであろう生々しい場面が一瞬のうちに脳裏に浮かんだ。
ぐっと目蓋の窪みに力をかけられて、彼の手が侵入してきて、ささやかな抵抗も虚しく、ぶつりと千切られ、ずるりと引きずり出された眼球。
ぱたぱたと左目から滴る血が、目を押さえて蹲る自らの手と、手の上に乗せた目を愛でるように眺める彼の手を、同じ色で汚す。

思わず恐怖に体を竦ませた瞬間、彼の顔が視界から見えなくなった。
直後、左目の視界が闇に落ちたように暗転する。
恐る恐る真っ暗な闇を探るように見つめてみても、そこには右も左も、一点の光も、彼の顔も浮かばなかった。
もしかしたら、もう左目は取り去られてしまったのか。
そんな錯覚さえ起こしたその瞬間、ぬるりとした感触が左目を襲った。
あたたかく濡れたそれは、そっと、ゆっくりと目をなぞっていく。
それが男の舌だと分かるまでに、少しの時間を要した。
なんとも言えない奇妙な感覚が、目からじわじわと広がって全身を硬直させる。
気持ち、悪い。
そう思えど、男を振り払うどころか自分の体を動かすことすらままならない状態は、不躾な舌を野放しにした。
不快なジレンマがじくじくと脳を侵食していく間にも、生あたたかい舌はゆっくりと目をなぞっていく。
そっと、そっと。優しく丁寧な舌は無遠慮に、目尻から目蓋の粘膜をなぞるようにして滑ってゆく。
濡れているせいで摩擦は少ないけれども、それでもやはり外からの異物の刺激に涙がじわりと滲み、睫毛が震えた。
近づきすぎた男の顔が、更にぼんやりと境界線を失っていく。
涙が溢れて目から零れ落ちそうになった瞬間、男は視界を暈すその雫を舌で掬い上げ、そしてゆっくりと顔を離した。

薄く涙の滲む右目と、すこしだけ違和感のある左目で男を見上げて、雲雀は思わず息を呑んだ。
彼は海のように穏やかな青い瞳と、緩やかに燃える赤い瞳で雲雀を見守りながら、見惚れるほどにうつくしい微笑を浮かべていた。
細く長い女性的な指が、やっぱり可笑しなくらいに優しく頬に触れる。
そうして彼は唇からそうっと、空気を震わせる細い糸のような溜め息をついた。
その嘆息にのせられた僅かな言葉が、雲雀には、はっきりと聞こえた。

「君の瞳が、欲しくなりました」

男は、そう言った。
まるでそれが一筋の希望であるかのように。
うたうように告げられた宣告に、雲雀は小さく諦念の溜め息をついた。
男の言葉は決して嘘をつかない。子供のように無垢な唇は、偽る術を知らないから。
近い未来にきっと、優しい手はこの両目を確実に抉り出すだろう。
彼の祈りは、絶対的な不可避の惨劇だった。

雲雀は男から目を逸らして、眼球にそっと手を触れた。
光を失うという事実は、けれどもちっとも実感として襲っては来ない。
不思議なのは、それでももう構わないような気がしていることだった。

きっとこの目が開くのも、あと数回だろう。
その前に男の顔を目蓋の裏に刻み込もうと、雲雀はゆっくりと目を上げた。