失わなくてはならないもの





鉛色の壁、うっすらと零れてくる微かな光、天井に組まれた鉄筋、不気味なほどに咲き乱れる桜。
仰向けに横たわった混凝土の床の上で、雲雀は混沌とした意識のなかで秩序の狂った世界をぼんやりと見つめていた。
暴力を受け続けてきた身体は酷く疲労し、男の一挙一動に鋭く尖っていた脳はもはや動きを止めていた。

指の一本すら動かすことも叶わずに、全身がじくじくと熱を持って痛んでいる。
折られた肋骨が肺を破ったのか、呼吸をするたびに息苦しさが増していた。
酸素の足りなくなった脳は身体の疲弊と相俟って、随分と前から不快な熱に浮かされてぼんやりと鈍く澱んでいる。

混濁しはじめた意識はどろどろと不快な昏睡を始めていた。
一刻を刻むごとに身体の重みは増してゆき、腕のなかに保ちつづけてきた意識が濁り始めた世界にゆっくりと沈み込んでいくのに、雲雀は気がついていた。
抵抗することすら出来ずに、無力な子供のように泥のような混沌の中にずるずると呑みこまれてゆく。
懶い混濁に押し負けて、虚ろに瞬いていた瞳がそっと閉じかけたときだった。


「ひばり」


混濁の中で唐突に聞こえた鮮明な音に、泥のような眠りに沈んでいた雲雀の意識は急激に引き上げられた。

ふ、と睫毛を上げて、雲雀は初めて男が隣に屈み込んでいることに気が付いた。

扉が開く音も、足音すらもしなかった。

これも幻覚だろうか、とぼんやりと男を見上げたけれども、頬に触れる手が酷く冷たかったから、それがあの男のものであることを知った。
きれいな白い手は触れたそばからずるずると熱を奪っていく。
無機物に親和を覚えるほどの冷たさは熱に腫れた頬には心地良く、雲雀はその事実に心の中で舌打ちをした。
彼はその面差しに何の表情も浮かべることなく、もう一度囁くほどに小さな声で雲雀、と名を呼んだ。
「眠ってはなりません」
いつもよりも少しだけ柔らかく、少しだけ強い響きだった。
それでも音は澱むことなく滑らかに彼の唇から落とされる。
雲雀は肺を痛めないようにそっと息を吸い込んで、溜め息の響きで呟いた。
「疲れたんだよ、少し」
「それでも。目蓋を落としてしまっては、なりません」
「どうして」
彼は鈍い光を放つ赤と青の瞳を上げて雲雀を見つめた。
感情を持たない色が不思議な滲み方をしたと思うと、彼はそっとかぶりを振った。
「もしも眠ってしまったら、貴方は自分の名前すら忘れてしまうでしょう」

甘く澱ませた声は、なにかを憂えているような音でそう呟いた。
いとおしむように細めた二つの瞳をそっと雲雀に当てたまま、男は静かに頬に触れた手を返すと、甲で雲雀に触れなおした。
女性のように柔らかなそれは、やっぱり温度を持ってはいなかった。
男は小さな微笑を浮かべて、神に祈るように雲雀を見つめた。
「貴方はすべて、覚えていなくてはなりません。貴方の名前を、貴方を支えてきた強さを」

「どうして、そんなこ、と」

不用意に吐き出した言葉は喉を掻き切って、無理矢理に言葉を遮ろうとする。
どろどろと固まる血が内側からせり上がって喉を塞ぎ、雲雀は思わず息苦しさに咳き込んだ。
繰り返される痛覚に脳はまたゆっくりと混濁し始め、闇の中に呑まれていくような眩暈が降りてくる。
腕の中から意識がゆっくりと滑り落ちていくのを感じながら、けれども雲雀は唇から零れた生暖かい血を拭う、優しい手の存在に気がついていた。

「貴方は何ひとつ、忘れてはならないんです。すべての記憶を抱いたままで、貴方は侵食されていく自分自身を知るんです。そうでなくては、ならないんです」

こいねがうようにそう囁いて、男はもう一度、雲雀をここに繋ぎ止める様に鳥の名前を繰り返した。

混濁は再び始まっていた。
景色は途切れ途切れに映り始めて皮膚の感覚が遠くなる。それでも頬に触れる冷たい手の感覚だけは、異様なほどにはっきりと浮き上がっていた。
振り払おうとして持ち上げたはずの手は、視界のずっと奥で血を滲ませたまま動かない。
ぼんやりと霞み始めた不自由な視界で、雲雀は投げ出した自身の手に、虚ろな目を当てた。
不恰好に折れ曲がった指は床の上に無造作に投げ出されたまま死んだように横たわっていたけれど、雲雀は手の中に残る力に気付いていた。
本当は容易いのだ。五指を開くことも、腕を持ち上げることも、触れる男の手を払いのけることも。
けれども拒絶してしまうことは出来なかった。
頬に触れる手の冷たさをとうに受け入れてしまった肌は、ひどく非力だったから。


ゆっくりと落ちてきた混濁に、雲雀は瞳を閉じた。

脆弱な意識はまたたく間に崩れ落ちて、泥の中に沈んでゆく。



落とした目蓋の裏は、あまやかな毒に侵食されていた。