きれいな季節だった。
透明な光を擁した太陽が降りそそぎ、白の街並みを眩いばかりに照らし出していた。
生命の色を一層深くした緑葉は鮮やかに揺れては乾いた温度の風に浚われる。
青い空を背にして空を舞っていた緑はふわりと小さく回転して、石畳の上に色を差すように落ちた。
坂道を踏みしめるように歩きながら、鮮烈な色にそっと目を細めた。
あまりに鮮やかな季節の中で、深い黒のスーツを身に纏った自分がぽつんと浮かび上がっているのを雲雀は知っていた。
母国では、追悼の色に黒を選んだ。亡くした人間を悼む色。心に生まれる悲しみの色。
すべてが淡い色をした母国の中で、ただ一つ強い色だった。
けれども、この国に黒は似合わない。きっとこの国の人間は、追悼にも鮮やかな色を選んで泣くのだろう。
小さな墓地から繋がる坂道を下りながら、最後にこの道を歩いたときのことを思い出した。
あの日、男はこの青空の下で血に染まった。
真っ白なシャツを汚す赤い血を、その傷を懸命に押さえて止めようとした自分の手を染める赤い血を、今でもはっきりと覚えている。
もう、一年が経ったというのに。
あの日からも時間は動き続けている。毎日のように太陽は朝を告げ、白銀の月は夜に輝いた。様々な物が目まぐるしく変わり、自分は一つ歳を取った。
それでも、何一つ動くことが出来ないでいる自分を知っている。心を侵食し続ける闇に名前が付けられないでいる自分を知っている。
あの男が呼吸を止めたその瞬間から、世界は色を変えたのだから。


当てもなく坂道を下っていた足は、いつしか開けた場所へと行き着いた。
広場とは名ばかりの公園には中央に小さな噴水があるだけで、そこは静かな佇まいを見せている。通りがかる人も疎らなひっそりとした空間が心地良かった。
広場を包み込む青々しい緑が静かに揺れ、噴水は水は舞い上げられては、小さな水の粒は光を含んできらきらと空できらめいた。
その淵に腰を下ろして静かに呼吸をした。陽射しが強い。
背中に当たる陽の光を感じて、雲雀は真っ青に澄んだ空を仰いだ。
吹き抜ける風にも人の笑い声にも、すべてのものに色があるこの国で、雲雀は一等に空の色が好きだった。
突き抜けるほどに青い色をしながら、それはとても凪いでいて、穏やかな印象さえ受けた。
海のように冴えた冷たさではなく、すべてを包み込む優しさを持った色。
しなやかなゆえに強さを持った色。濁りのない青。あの男の本当の、瞳の色。
人間のエゴの塊である赤い右目を、男は厭ってはいなかった。それによって自分は力と自由を得たのだから、と彼は言った。
彼が幼かったときの凄惨な記憶について、自分は多くを知るわけではない。
それでも、と思う。それでも、彼が人間の醜い欲望の犠牲になることなく、澄んだ空の色をした双眸でこの世界を映す未来があったとしたら、と。


見上げていた空の色に鮮やかな黄色が交わった気がした。目線を遣るよりも早く、子供の声が耳に届く。空に届いた色はこの子たちの声だったのだ、と思った。
子供たちは色とりどりのボールを弾ませながら、坂道の上から駆け降りてきた。
自分達も転げ落ちるように、覚束ない足を縺れさせながら、それでも懸命に転がるボールを追いかける。年の頃はみな五歳くらいだろうか。上がる笑い声は無邪気で、この空の色によく似合っていた。
賑やかな喧噪は、一瞬だった。小さな足音とともに笑い声はあっという間に遠くなり、公園はまた静けさを取り戻していく。
初夏の色をした風が子供たちを追いかけるように、木々を揺らして吹き抜けた時だった。


ぱしゃん、と何かが弾けるような音がした。
冷たい感覚が頬に飛び、背にしていた噴水の水が跳ねたのだと分かった。
不思議に思って振り返ると、きらきらと光を反射する水の中に真っ赤なボールが浮かんでいた。
どこから飛んできたのだろうか。不思議に思って、そっと手を伸ばす。
おもむろに水の中から赤い色を掬い上げたときだった。
不意に、スーツの裾が何かに引っ掛かったように引っ張られた。
強い力ではなかったけれど、不自然な体勢をしていた体はバランスを崩した。
ぐらりと一瞬視界が揺れて、咄嗟に噴水の縁に手を突く。僅かに水面に触れた指は、水の中の光の筋を揺らした。
訳が分からないまま、雲雀は後ろを振り返った。


そこに立っていたのは、幼い子供だった。
小さな手で裾を掴みながら、子供は雲雀を見詰めていた。
真っ直ぐな視線も、袖を掴まれる理由も分からない。困惑したままその瞳を見詰め返して、雲雀は思わず息を呑んだ。
自分を映す大きな二つの瞳は、きれいな青色をしていた。
目が醒めるほどに鮮やかで、吸い込まれそうに深い色だった。空の色をそのまま映し取ったような色は、あの男を、彼を、彷彿とさせた。
ぼんやりと目を瞠る雲雀に子供はどこか困ったような表情をして、裾を握る小さな手に力を込めた。
「ボール・・・」
単語だけを紡いで、子供はまた困ったように押し黙る。
ようやくその意図に気がついて、雲雀は手の中の真っ赤なボールを思い出した。
「君の、なんだね」
子供はこくりと頷いて、不安そうに雲雀を見上げる。あまりに真剣な表情に、雲雀は思わず微笑した。
「安心していいよ。僕は取ったりしないから」
はい、とボールを差し出すと、硝子玉のような瞳が輝く。小さな手が伸ばされて、ボールを差し出す手に触れた。
「ありがとう」
舌足らずな音でそう言って、子供は赤いボールを手に包み込んだ。その嬉しそうな様子を見詰めながら、その容姿にまでようやく意識がいった。
艶やかな黒髪に暗い瞳、きれいな褐色の肌を持つ人間が多い南寄りのこの地域で、子供は髪も肌も、目も異なる色をしていた。
繊細な淡い藍色をした髪は細く、その肌の色は水を思わせるほどに透き通っている。
深い青い目は光に弱いのか、強い陽射しに照らされた白い光の中で目を細めていた。
北の出身なのだろうか、とぼんやりと考えた。
視線に気がついたのか、子供は眼差しを持ち上げた。澄んだ青色の瞳が雲雀を見詰める。動こうとしない子供に一瞬躊躇って、それから問い掛けた。
「・・・行かなくていいのかい。みんな向こうに走って行ったよ」
友達だと聞いたわけではなかったけれど、同じようなボールを持った、同じような年頃の子供たちだった。一緒にいて、ボールを追いかけるうちにはぐれてしまったのだろう。転げるように駆けて行ってしまった彼らに追いつけるのだろうか。
雲雀の憂いを余所に、子供は首を振って、その代わりに雲雀に問い掛けた。
「イタリアの人、なの?」
意外な質問だった。瞬間ぽかんとした雲雀を、子供は大きな瞳を瞠って瞬きもせずに見詰めている。好奇心の広がった面差しに、はたと思い当たった。
黒髪が多い南の地域ではあるものの、自分の顔立ちは異なっている。そう言えば、この地域で外国人を見たことは数えるほどだった。
「違うよ・・・ジャッポーネから。知ってるかい?」
子供は首を振る。
「アジアの端にある国だよ」
「アジア?」
「ヨーロッパから見るとずっと東だね。その中の、小さな島国が日本」
「じゃあ、遠いんだね」
「僕にとってはそんなこともないけどね。君にとっては、遠いかもしれない」
与えられた言葉を考え込むように、幼い子供は少しだけ首を傾いで、それからふうんと小さな相槌を打った。幾度か瞬きをして、薄い色をした眉を寄せる。
物珍しそうな、不思議そうな、そんな表情をして子供はまじまじと雲雀を見上げた。
「ジャッポーネは、イタリア語、なの?」
子供らしい間違いに、雲雀は苦笑した。
「違うよ、日本では日本語。僕が話せるのは、ずっとここに住んでたから」
「どうして?」
「仕事でね。今は、・・・一年前からは、日本にいるけど。久しぶりに来たんだ」
「どうして?」
同じ言葉で繰り返された質問は、邪気のない真っ直ぐな問い掛けだった。
一度たりとも、ファミリーにさえ彼のことを話さなかった。感情を心の奥底に押し殺したまま、じっと受け入れられない現実を見つめてきた。
それをどうして今、話す気になったのかは分からない。
子供相手だったからかもしれない。
きれいな初夏の日だったかもしれない。
それとも、もう戻れないほどに時間が過ぎてしまったからしれない。
「・・・人にね。会いに来たんだ」
ぽつりと雲雀は呟いた。子供が不思議そうに顔を上げる。
「ずっと会ってなかったんだ。一年前、この国で別れたまま」
「おにいさんのお友達?」
「・・・友達、ではないんだけどね。あまりに側にいすぎて、あいつのことを何て呼んでいいのか分からない」
そう言いながら二人で過ごした日々が蘇って、雲雀は思わず微笑した。
十年間のことを最初から最後まで、すべて昨日のことのように思い出せることが不思議だった。言葉はとても滑らかに、口から出てきた。
「変なやつだったな。しつこいくらい纏わりついてきて、うるさく干渉してきて、うっとおしいほど側にいてね。最初は僕も、疎んじてたんだけど。でも可笑しいね。気がついたら十年も一緒にいた」
それでも、と呟いて雲雀はそっと睫毛を伏せた。
「あいつは何にも変わらなかった。いつまでたっても変わらないまま、きれいに笑ってくれた。いつでも僕の名前を呼んで、飽きるくらいに愛してるって言って、数えきれないくらいにキスをしてくれた」
桜の花の下で出会った日には、こんなことになるなんて夢にも思っていなかった。
ここに来るまでにたくさんのことがあった。憎しみだけでその背中を追いかけ続け、あの男に会うためにボンゴレに加わり、再び顔を合わせ、過去を許せるようになるまで。
たくさんの月日が流れて、たくさんの葛藤があって、ようやく丸くなれたのだ。
自分も、彼も。
「僕の日常には彼が必ずいて、これからもずっとそんな風に続いてくんだと思ってた。でも、そうじゃなかった。一年前の今日、あいつはいなくなった。僕を置いて、いなくなった」

陽射しが眩しい。そっと吐き出した言葉は、風にかき消されていった。

「・・・けんか、したんだね」
どこか遠慮がちな、それでいて悲しそうな声だった。静かに落としたため息が聞こえたのだろうか。そっと首を横に振って、雲雀は緩やかに否定した。
「けんかとは違うんだけどね。でも、僕は怒ってる。・・・約束を、守ってくれなかったから」
本当は約束、と呼んでいいのかも分からない。
もうずっと前の話になるし、睦み合いの戯れに紡がれた言葉だった。
どう答えていいのか分からないまま、自分はそれをいつものようにいなしてしまったし、彼もあの微笑を浮かべたまま、それ以上何も言わなかった。
もしかしたら忘れてしまったのかもしれないな、と思う。それほどに他愛もない会話だった。それをこんな風に怒るのは子供じみているのかもしれない。
「仲直り、できたの?」
ぎゅ、と赤いボールを握り直して、子供は眼差しを真っ直ぐに雲雀に向けた。
「・・・その人のこと、まだ嫌いなの?」
眉尻を下げながら、子供は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
まるで自分のことのように真剣な眼差しをする。優しい子だ、と思った。
「違うよ」
雲雀は微笑んで、宥めるように子供の髪をそっと撫ぜた。糸のように細い髪が指を通っていく。小さな頭に手を乗せて、ぽつりと呟いた。
「まだ、好きなんだ」
初めて口にできた、と思った。
そう、好きだったのだ。調子の良い物言いも、うっとおしいほどの干渉も、柔らかな微笑も、澄んだ声の色も、青空のような瞳も、すべて。
戯言のような約束をずっと覚えているのも、その言葉を守らなかったことを許せないのも、忘れたくないからなのだ。彼がここにいたことを。

「可笑しいね」
子供は不可思議な顔をして、雲雀を見詰めている。何も言わない子供が、けれどもすべてを理解しているような気がした。
「もう、たくさん失くしてきたんだ。大切だと思ってたものも、本当は失くしちゃいけなかったものも。それでも振り返ったことなんて、なかったのに」
それでも一つだけ、この一つだけ、どうしても諦めることが出来ないでいる。まるで聞き分けのない子供のように。
「どんなに声が聞きたくても、どんなに笑ってほしくても、どんなに会いたくても、それが叶わないことなんて、知ってる。知ってる、はずなのに」
雲雀は青空を仰いだ。鮮やかな色が目に沁みて、泣いてしまいそうだと思った。
喉が締め付けられるように痛んで、言葉を詰まらせた。


「ごめんなさい」


唐突に聞こえたのは、子供の声だった。その言葉の意味は理解できなかった。
彼に謝る理由などないはずだった。
それでもその言葉の響きを知っていたから、雲雀は息を呑んだまま動けなかった。
ひどく懐かしい、柔らかな音だった。
「ごめんなさい」
子供はもう一度、同じ言葉を繰り返した。息を殺したまま、ゆっくりと目線を下げる。
空の色に染められた双眸が真っ直ぐに自分を見据えていた。
濁りのない眼の色に、どこか悲しげな微笑を浮かぶ。
「ずっと側にいるって約束したのにね」
息苦しいほどに喉が詰まる。眼の前が真っ白になる。
それは間違いなく、彼と交わした言葉だった。じゃれ合いのようにキスをしながら、彼は確かに言ったのだ。
ずっとずっと、これからもあなたの側にいます、と。
瞬きもせずに目を瞠ったまま、雲雀は目の前の子供を茫然と見つめた。
「約束、守れませんでした」
眉尻が下がって、どこか困ったような微笑が浮かべられる。
長い睫毛を伏せて、子供はぽつりと呟いた。
「本当は君の側で、ずっと一緒に過ごしたかった。なんでもない会話をしたり、けんかをしたり、君が笑ってくれたり、何度もキスをしたり、抱き合ったりして。そうやって君と一緒に過ごした時間は、本当に幸せだったから」
小さな手がそっと重ねられる。
真っ白な頭でその手を掴もうとして、けれども体は動かなかった。
「ありがとう、恭弥」
声が出なかった。
どうしても伝えたい言葉があって、それでも何かが邪魔をして音にならない。
柔らかな微笑が、きれいな面差しに浮かぶ。それを目にした瞬間に、繋がれていた手を引かれていた。
崩れかけた体勢に息を呑んだ瞬間、ふと、大きな体に抱き止められた。
目の前で長い髪が揺れた気がした。
きれいな長い指が、柔らかく頬に触れる。柔らかな感覚が、愛おしげに唇に重ねられる。

風のような音で、それは耳に届いた。
「僕も君を、愛しています」
きれいな低い音だった。ずっと焦がれてきた、彼の声だった。
叫びたかった言葉が溢れてくる。



――む、くろ。
むくろむくろむくろ。


「骸!!」


有りっ丈の声で叫んだ瞬間に、それをかき消す様にして風が吹き抜けた。
ざあ、と緑が揺れる音がする。
木々を揺らした風は広場をすり抜けて、空に吹き抜けて行った。
時が動き出した広場で、雲雀は立ち尽くしていた。
子供も、彼も、いなくなっていた。
頬に触れられた感覚も、確かに聴いたはずの音も、もう残ってはいない。
まるで儚い白昼夢のように、それは風に攫われて消えた。何の痕跡すら残さずに、ただあたたかな温度だけを胸の中に残して。
崩れ落ちるようにして、雲雀は広場の石畳に膝をついた。
確かにあれは、彼だった。彼はここにいた。
頬に触れる温度も、口づけの甘さも、愛してると言う音も、確かに彼のものだった。
見紛うはずがなかった。ずっと叫びたいほどに求めてきたものだったのだから。


茫然と眼差しを持ち上げて、雲雀は青空を見上げた。綺麗な青色がじわりと溶けて、水を零した絵の具のように滲む。空を滲ませた温い水は頬を伝って、ぱたぱたと地面に落ちていった。ようやく自分が泣いているのだと、気がついた。
じわりと胸の中に感情が広がっていく。あの日からずっと、ずっと失くしていたままだったもの。あたたかな涙がゆっくりと何かを溶かして零れ落ちていった。
「っ・・・!」

胸が苦しくて、息ができなくて、雲雀は地面に手をついた。
本当はずっと泣きたかったのだ。声を上げて、思い切り泣きたかったのだ。
けれどそうしたら、本当に彼が死んでしまうような気がした。それを認めたくなくて、受け入れることが出来なくて、一年もの時が過ぎた。
長い長い、期間だった。


幸せだった時間はもう戻ってこないだろう。もう二度と彼の微笑を見ることもなければ、きれいな低い声を聞くこともない。彼は、死んだのだから。
すべてが始まって、すべてが終わってしまった。
その言葉の意味が重く圧し掛かって、鮮やかな景色を変えていく。彼はもういない。もう二度と会えない。世界から色が消えていくのが分かった。

けれどモノクロになっていく視界の中で、一つだけが色を変えなかった。
穏やかな青。深い色をした青。彼の瞳の色。
天国に届くほど澄み渡った色をして、青空は雲雀の上に広がっていた。
だから生きていけると思った。
たとえ色が消えた世界でも、音を失った世界でも、彼がいなくなった世界でも。
生きていけると、思えた。