厭な夢を、みた。
コンクリートの床を喰い破って生まれた無数の蔦が、僕の手に、脚に、首に絡み付く。
僕を離すまいと掴んで、一筋の光さえ許さない世界へ連れていこうとする。
硬く冷たかったコンクリートはいつしかどろりと液化し、自らの体の重みで闇へと沈んでいく。
光と闇が滲む中で、けれど僕は知っていた。
この蔦は、火が嫌いなんだ。
僕の握られた左手の中には、本当は小さな炎があった。この手を開けば、左手に絡み付く蔦は僕を離すだろう。
ひどく首を締め付ける蔦は、たちまち緩まるのだろう。
けれど、僕は手を開かなかった。
歪んでいく視界の中で、光が闇に押し負けていくのを、ただ、じっと見つめていた。









ゆっくりと開いた目が最初に捉えたのは、今にも落ちそうに古びて、鉄筋が剥き出しになった天井だった。
確かめるように、今更左手を開いて地面に這わす。
それはいつもと寸分違わない、冷たく硬い無機質な床だった。
安堵とも、嘆息ともとれない息を小さくついた時、唐突に頭上から静かな音が降ってきた。
「お目覚めですか」
どうしてだろう、と思った。
確かに目は醒めたはずなのに。
体中に絡み付く蔦は最早幻と消え去り、体はしっかりとコンクリートに支えられているのに。
あの夢と、この現実、いったい本当の悪夢はどちらなのだろう。
「よく眠っていましたね」
男の声をすり抜けて、僕は天井に程近い位置にある申し訳程度の大きさの、けれどこの部屋に唯一許された窓を見遣った。
薄ぼんやりと透過された光は、濁りのない、世界のはじまりの色をしていて、僕は辛うじて今が朝であり、もっと言うならばきっと早朝なのだということを知った。
外へ繋がる窓が小さすぎるこの独房では、時の感覚が奪われる。
日付、時間、季節。
当たり前のように外の世界に広がるものが、この中では一切取り去られ、代わりに別のものがこの部屋の空気をひたひたと満たしている。
しいんと音がするほどに静かなそのなにものかの正体を、僕はまだ知らない。

何も答えない僕に、男はすこしも気を悪くしたような様子を見せなかった。
問いかけたことすら忘れてしまったような淀みない仕草で、男は眼前に屈みこむと、僕の頬にそっと手を伸ばした。
流れ出た血で汚れた頬をその指は優しく拭って、それから男は僕に訊ねた。
「いい夢はみられましたか」
見上げた男は、非情なほど温かな微笑を浮かべていた。
僕はかぶりを振った。
少しの慈悲もない言葉に侵食される前に、頭で考えるよりも先に本能が打ち消す。
僕の答えを聴くと、男は口元を綺麗な弧に撓らせて、子供のように首を傾いだ。
双眸が僕を捕らえて、見つめる。僕もその双方の瞳を見つめる。
そうして暫く僕らは対峙し合ったけれど、それを破ったのは男だった。
「怖ろしい夢を、見たのですね」
綺麗な音に乗せられた崩れない美しい言葉が、男の喉を通り、濡れる舌の上を滑り、規則的に歪む唇が模して、それから僕の耳に届いた。
言葉は鉛のようにずん、と内側を揺らして、僕は思わず肩を震わせた。
「ひばり、」
甘い声が荒廃して死んだ空気を小さく震わせる。
世界のすべての嘘で汚れた唇から産み落とされる言葉は、どこまでも透き通っている。
なんの穢れもなく透明だから、それは素直に僕の耳に飛び込んでくる。
「いつまでそこに這い蹲っているつもりですか」
いい加減、地から見上げる景色は飽きたのではないですか。
雲雀というさえずりの鳥の名前を持つ君は。
「起き上がりなさい」
それは今までで聴いたことのない言葉だった。きれい、だとか、かわいそう、だとか、おろか、だとか、抱き締める振りをしたまま閉じ込めてしまう言葉ばかりが深く刻み込まれた心は、それゆえにその言葉を知らずにするりと取りこぼしてしまった。
意味が分からずにぼんやりとまたたきをすると、無造作に男の右手が伸ばされた。
根元から真っ直ぐに細く尖った指をもつ白い手は、人ひとりを引き上げられるとは思えないほどに華奢だったけれど、その十本の指は綺麗に揃えられてこちらを向いて、僕をしきりに促している。
「もう一度だけ言います。起き上がりなさい、ひばり」
男はもう口を開きたくない、と言わんばかりに、固く固く唇を結んだ。
男はいつもそうだった。
ひとつの言葉を吐き出すごとに唇はのろのろと億劫そうに持ち上げられ、奇妙にうつくしく歪んで、役割を終えるとそろそろと溜め息を吐き出しながら固く閉じられる。
その仕草が目を奪われるほどにあざやかで優雅だったから、僕はそれを知った。
けれど怠惰な唇に代わって、男の仕草や表情はどんな些細なものでも、饒舌に彼を表した。
長い睫毛が羽のように音を立てるゆっくりとしたまたたきも、三重の目蓋が猫のようにすうっと細められつくられる眼差しも、ほんの少し眉根を寄せる、けれど決して卑しくならない癖も、下唇のラインに合わせて右の人差し指をのせる仕草も。そして真っ直ぐに伸ばされたこの手も。
偽るための言葉を知らず、なんの介入も受けずに直接生まれて流れ出していたものは、混じり気のない純粋な嘘で飾られていた。


何故その手に従おうと思ったのかは分からない。
けれど、僕はその手を取らずに睨みつけると、代わりにもう一度そっと地に左手をのせた。
それが容赦なく硬いことを確かめて、それから地に触れる手にぐっと力をかけた。
男はその手を見てほんの少しだけ眉を上げたけれど、僕の行動を阻んだりはしなかった。
その代わりに、男はひどくゆったりとした仕草で女性のように頬に手を沿わせて、おっとりと傍観の目を細めた。
やさしげに見守る瞳は、じっと獲物を見つめる猛禽類のそれだった。
どんな微々たる表情や色さえも、執拗なほどにすべてを追いかけ、すべてを捕らえている。
僅かな小指の動きも、ひとりでに起こった中指の震えも、剥がれた親指の爪から滲み出る血もすべて、ひとつの動きも零すことなく、ふたつの目が見つめている。
ねっとりと絡めとるような視線が手に、腕に、肩に、首に絡みついて、起こす体は自分のものでないようにひどく重たかった。
息苦しさに咽そうになりながら、僕は徐々に左手に体重を預けていった。
ほんのすこし重みをかけるごとに腕はがくがくと危なげに震えたけれど、それでも不思議なことに痛みはまったく実感を持って伝わってこなかった。
もしかしたら死んでしまったのかもしれない、と思った。
感情や記憶をすべて捨てて、左手はもう屍となって存在しているだけなのかもしれない。
それでもひどい震えだけが左腕から全身に伝わっていて、それが僕を一層混乱させる。


不意に疲弊した関節ががくりと折れて、僕は体勢を崩した。
起き上がりかけていた体が、これっぽっちも逆らいもせず、地に向かって直角に崩れていく。
けれど落ちる体を支えたのは、傍観に徹していた男の右手だった。
男の右手は僕の左手をひどく強い力で掴み、僕は地に墜ちるでもない、起き上がるでもない場所に浮いた。
驚いて見上げた瞳は、青みがかったその色に薄い感情の帯を揺蕩わせていた。
それはしなやかにうねり、翻った瞬間に、一瞬だけなにか異色な感情を映し、けれど目を凝らして見つめようとしたときにはもう薄れて、その目はいつもの感情を沈ませた色に戻っている。
目蓋が落とされる前に、そこに残された僅かな残骸を探ろうとしたけれど、それは囲う腕によって阻まれた。
男の腕が絡みつくように、肩を、背中を、喉元を、柔らかな力で締め上げる。
抱き締められた首筋に這わされた指はなめらかに滑って、肩に散らばる傷跡を探り当てた。
この傷はどのようにしてつくられたのだろうか。
硝子の床に突き飛ばされた時だったろうか。
それとも、長い爪を立てられた時だったろうか。
この男は、そのとき微笑っていただろうか。

古くて鮮明な記憶にまたたきをするより早く、また新しい音が塗り重ねられる。
「もっと、苦しんで、嘆いて」
咽返るほど甘く、重たい声色が意識をぐらつかせた。
「僕の中で、死ねばいいんです、君は」
ねっとりと体に纏わりついてくる声に僕は思わず首を振って否んだけれど、男の声はそれよりも寸分早く僕の耳の中に落ちていった。
静かに、優しく、はっきりとした強迫性を持って、耳の中に落ちてゆく。
「最後まで、見届けてあげる」
男は背中にまわした腕で、拘束するように、肩を折るように抱き締めた。
「僕は、きみを、愛していますから」
息を止めてしまうほどに濃く重い、蜜のような言葉に、僕は反射で首を振った。
手で耳を塞ぎたい。塞げないのならば、切り落としてしまいたい。
自分の身体に耳がついていることをこれほどまでに呪ったのは、これが後にも先にも初めてだった。
素早く弾けた僕の答えを、彼はゆっくりとそれを否定した。
僕の顔の真横で振られた髪が頬を擽る。
それは思っていたよりもずっと細く、柔らかだった。
「愛しています」
首を振った瞬間に、耳の中に溜まったものがちり、と音を立てて揺れたのが聴こえた。
受容出来るはずのない言葉への否定は、渇ききった喉を掠りながら、自然に唇から零れ落ちた。
「嘘、だ」
口を利かないと誓ったのは、この舌だった。
けれどもその言葉を捨ててしまってもなお、拒絶の意志を刻み込ませたかった。
この舌に、この耳に、そして男の瞳に。
頭に添えられていた男の手は一瞬動きを止めて、けれどもその事実に気がつくより早く、そっと僕の肩にのせられた。
優しい手がゆっくりと僕を引き離して、美しい面差しは真っ直ぐに僕を見つめた。
「嘘なんかじゃ、ありません」
声に揺らされた空気は不思議と一瞬光を受けて、それからまた静かに沈んでいった。
目を凝らすと、光を受けて朽ち堕ちていく音の欠片が一瞬だけ目の端に見えて、それは目を奪われるほどに綺麗だった。

僕はそのときに、初めて気が付いた。
だから、怖いのだ、と。
この男の目が、唇が、舌が、手が、爪が、骨が底知れぬほどに冷たく怖ろしいのは、それが触れられないほどに美しいからなのだと。
優しいもの、暖かなもの、穏やかなもの、綺麗なものと思って手を伸ばせば、そこからすべてが凍ってしまうほどに。
美しいものは純粋で、それ故に何にも阻まれることなく、いとも容易に肉を抉り、心を引き裂いてしまうから。
「ひばり、」
気がついてしまった恐怖で震える腕に思わず手を伸ばして、僕は幾度も首を振った。
「もう、いい」
「いいえ」
「やめてよ、もう」
男の声が耳の中で膨張して、ひどい耳鳴りがする。
叫び出したいのを必死に堪えて搾り出した声は、ひどく掠れていた。
「やめません」
怯えと抵抗の色の浮かんだ僕の言葉をいなすことをせずに、男はそれを真正面から受け止めた。
その声はいたずらに真摯で誠実なものに似ていて、その瞳はなにかを知っているような色をしていた。
だからこそ僕は、ひどく怖ろしかった。
「もう一つ、教えてあげましょうか」
男の微笑が深まって、愛おしむような優しい目が僕を見下ろした。
いつだって優しい怠惰な唇が動いて、甘い甘い甘い声が容赦なく僕を地に殴りつけた。
「きみは、僕を」
「やめ、」
「愛しているんです」
「違う!」
男に振り上げたはずの拳は何故だか床を打っていた。
打ち付けられた手の甲に、小さな硝子片が食い込んだのが分かった。
それでも毒が回る前に、痛みが全身を侵してしまう前に、ざらざらと荒い床に僕は無意識のうちに何度も何度も手の甲を擦り付けていた。
「愛してなんか、いない、僕は、君なんか、愛していない」
擦られた薄い皮は破けて、鮮やかな臙脂色の血が滲んで冷たい灰色に色を挿す。
ぐちゃぐちゃな切り口から覗いた肉を、尖ったコンクリートが更に削ったけれど、それでもまだ痛みは少しも形にならなかった。
肉の奥底が見えても更に奥深くを抉ろうとする僕の手に、男の手が重ねられた。
手は動きを止められ、男はそのままそっと僕の手を握りこんだ。
容易に振り払えるほど優しく、決して逃れられないほどに強い手で。
男はゆっくりと指を滑らせて、固く握られた僕の指を割り、そうして自らの指を絡ませた。
傷口からさらさらと零れる臙脂の血が男の指に伝って、白い指が端から塗り潰されて、伝わって流れる間にそれは赤黒く色を変えていく。
血に侵食されていく手をまたたきすら忘れて見つめていると、男は愛おしむようにそっと頬に手を添えて、僕の視界をずらした。
「ごめんね。きみはもう、僕が殺してしまった。きみは、もう死んでしまった。きみのすべては僕が殺して、奪ってしまったから」
意味を呑み込んだ僕はその音を振り払おうと必死で首を振ったけれど、まるで細い糸が絡んでいるように首はひどく重たく、動くたびになにかが首に食い込んで呼吸を締め上げた。
「僕は、死んでない。僕は生きてる、僕の意志を持って、生きてる。何ひとつ、奪われてなんかない、奪われてなんか、ない!」
大声で叫んだ言葉が喉を焼いて、ひりひりと熱を残している。男はただ僕を見つめていた。
確かに微笑んでいるのに、すこしの温度もない表情で。
理性がゆるやかに紛糾していくのが目の裏に浮かんで、それに抗う僕は喉を潰すほどに叫んだ。
「君が僕を、縛り付けるんだ、僕を、僕を、ここに、その声で、言葉で、雁字搦めにして!」
「きみにはもう、判らないのですね。それを望んでいるのは、きみです。縛り付けられて、傷付けられて、殺されるのを望んでいるのは、」
「黙れ!」
大声を上げて酸素の足りなくなった脳が甘さにも似た痺れを起こし、広がる視界が白く眩む。
身体が平衡感覚を失って、僕は倒れこむように床に手をついた。
男の首を締め上げるために、喉を切り裂いてやるために、顔を上げなければならない、目を離してはいけない、そう思ったけれど、白く眩む視界は許してはくれなかった。
男の代わりにその影が映る地面を睨みつけて、どれほど時が経ったのか分からない。
唐突に影がその色を増して、同時に衣擦れの音が目の前で聞こえた。
男がすぐそばに屈みこんだのだと、分かった。


「ならば、賭けをしましょうか」
その声はひどく近くで聴こえた。
吐き出す息継ぎや、唇から漏れる息すら、はっきりと両手で掴めると思った。
地面を見つめる視界に両の手が伸びてきて、その手は僕の頬を包むと、白い混濁の中で藻掻く僕をいとも容易く救い上げた。
自らの力では決してかなわなかった視界が、圧倒的な力に支配されて開けた。
男の顔はとても近くにあった。
そのうっすらと開かれた血の色をした唇に、口付けられると思うほどに。
耳鳴りが脳を支配する。感覚も言語も感情すらも歪ませて。
とっくに壊れて狂ってしまった世界に、男の声が聞こえる。
その声がちっとも歪まずに透明で美しいのはどうしてだろうと、ぼんやりと霞む思考を巡らせた。
「あなたがここから出て行けたのなら、そのときは僕はあなたに殺されましょう。けれど、もしあなたが出て行けなかったのなら、そのときは」
最後の言葉は聞こえなかった。
男は確かになにか言葉を唇にのせたけれど、ひどい耳鳴りがそれを掻き消してしまった。
それでも目で唇の動きを追っていると、見つめていた唇はなにかを紡ぎながら弧に歪んで、男は笑った。
途端、痛みにも似た鮮烈な感覚が、背中を走った。
その微笑には、確かな温度があると思った。
ひんやりとした氷の世界のなかに唐突に生まれた、初めて感じた光に似た温かさだった。
思わず手を伸ばそうとして、けれどそれよりも寸分早く、支えになっていた両の手が名残惜しげに頬から離れて、僕は床に沈んだ。
男はゆっくりと立ち上がると、そっと背を向けて、一瞥することもなく歩き出した。
不思議なことに彼の靴音も、服が擦れる音もちっとも聞こえなくて、それでも彼がほんの少し動くたびにその残骸が巻き上げられてきらきらと光っている。

またたきを一度するより前に、男は金属の重い扉に吸い込まれて、消えていった。
余韻にきらめいている空気の中で、扉が閉まると同時に錠が掛けられる音がした。
大きな錠が落ちて、チェーンが巻きつけられる音までがドアから床を伝って僕の耳を突き刺す。
チェーンが揺れて、金属どうしが生み出すもの特有の、冷たい無機質な衝突音が聞こえて、それからまた空気は深い海の底のように静かに沈んでいった。



ああ、やっぱり。やっぱり、あの男は嘘吐きだ。
出られるわけ、ないじゃないか。
死んだ光と一緒に横たわりながら、冷酷な錠の金属音を腕に抱いたまま、じっと冷たい扉を見つめた。
あの男は僕をここから出す気などこれっぽっちもなくて、ただこの鳥籠に固い錠を掛けて、僕が出られずに藻掻くのを、僕の手の届かないずっとずっと上から、おっとりとあの微笑を浮かべて見下ろしているだけなんだ。
あんな重たい錠を掛けられた扉なんて、開けられるはずがない。
僕は出られるはずがない。
あの唇は偽りしか象らず、空言しか生み出さないことも、濁りのない綺麗な声は温かなものをこれっぽっちも含まず、ひたすらに冷たい音だということも、この肌は知っている。
可哀想だという囁きも、綺麗だという呟きも、愛おしいという罵倒も、殺してしまいたいという賛美も、死んだらいいという睦言も、愛しているという祈りも、すべてすべてすべて、本当であるはずがないということを、この耳に刻み込まれている。
一瞬感じた温かさは、耳鳴りで雑音に浸食されて濁った脳が見せた幻影にすぎない。
あの男が持つものが、温かいはずがないのだ。
だから僕は、立ち上がれる。


床に乗せた両腕にそっと力をかけると、ゆっくりと体を起こした。
骨がぎしりと悲鳴を立てて軋み眩暈が脳を襲ったけれど、希望を見いだした腕は折れなかった。
右足を硬いコンクリートにゆっくりと立てて立ち上がると、筋肉の落ちた脚は体重を支えられずに、僕は一瞬よろけて両手を冷たい壁についた。
支えをなくして揺らいだ世界に、踏み止まれるように暗示をかける。
出られるはずがないのだから、重い錠がかかったこの籠から飛び立てるはずがないのだからと、暗示をかける。
大丈夫、大丈夫と、うわ言のように口の中で幾度も呟きながら、ゆっくりと這うように壁を伝っていくと、僕の確信は色を濃く増していった。
この姿が無様であっても、この扉に世界は閉ざされ、羽根は捥がれているのだ。
憐憫を享受するのは僕ではなく、あの男だった。
出口に近づくにつれ疲弊した足は縺れ、僕は倒れこむように手を伸ばして扉に触れた。
鈍い色をした金属の表面は、あの男と同じほどに感情を感じずに冷たかった。
それでも僕は愛しさにも似た感覚をもって、その表面にそっと手のひらを添えた。
開くはずがない扉。虚構の裏に隠された真実。
両手を置いて、すべての体重を扉にかける。
この先に見えるのは、真っ暗な光。
闇に呑まれた、希望の光。


そうでなくては、ならなかったのに。

扉には重い錠が掛けられている。
それを囲うように、頑丈な意思を持ってチェーンが巻きつけられている。
それは絶対に、開いてはならなかったのに。


力を受けた扉は軋むような音を立てた。
添えている手にゆるやかな震えが伝わり、僕はその恐怖に反射で手を離した。
錠が掛けられチェーンが巻きつけられたはずの扉は、ゆっくりと、動き出した。
体を竦ませて、呆然とする僕を目の前で置き去りにして。
主体者のいなくなった扉は、それでも自らの意思に従うように開いてゆく。
隙間から埋め尽くすように、荒れ果てた部屋に清潔な光が導かれる。
朝の光が目映くきらめいて、扉の前に為す術もなく立ち尽くす僕に、残酷に燦々と降り注ぐ。
真っ白な光がすべてを浄化して、そしてすべてを容赦なく暴いていく。
まるで真っ直ぐに僕を見つめる男の目のように、それが真実だと言わんばかりに。
「ちが、う」
この扉には錠が掛かっている。
僕を鳥籠に閉じ込める錠が掛かっている。
だから僕は閉じ込められている。
だからこそ僕はここに閉じ込められていた、はずなのに。


「どうして、僕は」
扉の手前で、僕は膝から崩れ落ちた。
耳鳴りが酷くなり、くらりと眩暈がして、意思を失った足が崩れ落ちるままに僕は床に沈みこんだ。
耳の中で溜まりに溜まったものが轟音を立てて破裂して、支えきれなくなった内側から溢れ出す。
掻き集めることも隠してしまうことも出来ない。
原型も留めずに脆く壊れてしまったものは、もう元に戻すことなど、出来ない。


ゆっくりと壊れてゆく腕の中のものを、男は優しい微笑を浮かべて、見守っていた。







いとしさで世界が傾ぎそうなほど (title01/エナメル)