天におられるわたしたちの父よ
御名が聖とされますように
御国が来ますように
御心が天に行われるとおり地にも行われますように
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください
わたしたちの罪をお許しください
わたしたちも人を許します
わたしたちを誘惑におちいらせず
悪からお救いください





泥のような眠りだった。温度も、時間も、すべての感覚が遠く、融解していくのが分かる。
混濁した場所だった。そこは秩序立ったものから一番遠い場所だった。
生暖かい闇の中に沈んでいく。自分自身が溶けて堕ちて行く。
皮膚の輪郭がゆっくりと闇に馴染んでゆき、肉体が、肋骨が乖離する。魂だけが浮遊する世界。
闇と光が混沌の中に呑まれていく。
それは世界の始まり。世界の終わり。

けれども混沌だけが支配する、血の温度をした温い闇は、眩いばかりの光によって唐突に開かれた。





沈んでいた意識が不意に浮上した理由に気が付くまで、少しだけ時間がかかった。
小さな部屋に音が響いている。何の濁りもない、鈴が鳴るような音だった。澄み切ったなめらかな声。それはゆっくりと音符を辿り、ぶれることなく上下する。個として鳴っていた音は互いに繋がっては、一つの歌となって意味を持った。
けれどもうつくしい歌は唐突に途切れて、代わりに耳に流れ込んできたのは聞き慣れた声だった。
「ああ、寒くなりましたねえ」
閉じていた目蓋をゆっくりと持ち上げる。最初に目に入ってきたのは薄暗い天井だった。
無機物の鉄筋、ほの暗い照明、儚く咲く桜。そしてあの男の顔。
ここに閉じ込められてからどれくらいの時が経ったのか、自分に知る術はない。
この狭い空間の中で見えるものは数えるほどもなく、その景色は変わることもない。それは視覚を奪われたことと同義だった。
唯一外界と繋がる小さな窓だけが、ぼんやりと時を知らせている。夏の明るい空の色から、いつしか外には枯葉が舞い始め、今は白い雪がちらついている。
いつの間にか季節は二つも過ぎ去っていったのだろう。
「ご存知でしたか。クリスマスなんですよ、今日」
いつもと同じ微笑を浮かべて、男は不躾に座っていた机から腰を下ろした。虚ろに目を見開いたままソファに横たわって、雲雀は返事をしなかった。それは初めて与えられた日付の感覚だった。それでもそれは全く意味を成さない。こうして自分はここに縛り付けられているのだから。
「素敵な日だと思いませんか。主の降誕を祝って、この世の中に祈りを捧げて、幸せが溢れる日です」
あまりに穏やかな声で語られた言葉は、あまりに男から遠かった。救い主、祈り、幸せ。
は、と鼻で笑って男へと顔を向けると、男は不思議そうにこちらを見遣った。
「君がそんなことを言うなんてね。あれだけ人を殺してきて、暴力で奪い尽くして、化け物めいた力を持ってる君が、今更」
莫迦げてるよ、くだらない。自分に向けられたその言葉を柔らかな表情で見守って、男は静かに頷いた。
「…そうですね、莫迦げているのかもしれません」
机の前からゆっくりと歩を進めて、男は雲雀の横たわるソファの前に跪いた。同じ目線になった雲雀と視線を合わせて、柔らかく微笑を浮かべる。赤と青の瞳が自分を見つめる。呪われた、と彼自身が自称する右目がきらりと光った気がした。
男はまるで説教をする神父のような優しい物腰で、静かに諭すような口調で呟いた。
「どんなに神を思っても、顧みられることはないのですから。僕も、」
男の人差し指が伸ばされる。うつくしく尖ったそれは、真っ直ぐに自分を指した。
「そして、君も」
にこりと微笑んで、男はそっと指をその先へと伸ばした。随分と伸びた前髪に華奢な指が触れる。さらりと零れ落ちる髪を指に絡めて、男はそれに愛おしむように口付けた。
「僕らは見棄てられたんですよ。慈悲の父からも、慈愛の母からも」
その言葉に不似合いなほどに優しい音だった。じわりと脳が混乱していく。この男が示唆する意味が分からなかった。
「…僕は、救いなんていらない。祈ったりはしない」
「君は僕が殺すから、でしょう。希うことなど何もない。君はそういう人でしょうね」
喉から出かかった台詞をそのままになぞられて、雲雀は唇を結んだ。思考を読まれていることがひどく不快だった。そんな自分を宥めるような仕草で、男は髪に口付けたまま、穏やかな声で呟いた。
「喉が嗄れるほど叫んでも、胸を掻き毟るほどに祈っても、聞き届けられることはないんです。僕らは、救われることはないんですよ」
「…それなら、どうして」
無意識のうちに零れた言葉に、男はそっと顔を上げた。少しの瑕瑾すら見当たらない端整な面差しが、少しだけ表情を滲ませて自分を見つめる。
「不毛だよ。むしろ、滑稽だ。君が神に祈るなんて」
自分が吐き捨てた言葉を、男は表情の一つも変えずに受け止めていた。穏やかな表情で、皮肉なほどにうつくしい表情で。
「聞き届けられないって言ったのは君だろう」
「はい」
「救われないなら、君は何を祈るの」
そっと首を傾いで、男は雲雀の眸を真っ直ぐに覗きこんで微笑した。それはまるで聖人を思わせるような、気高ささえ感じられる笑みだった。
「救われることです」

そっと大切なものを扱うように髪を撫でながら、男は音を紡ぎ始めた。硝子のように透明な透き通った声が廃墟の中に響き渡る。この国の言語でも、男の国の言語でもない言葉で。神の栄光を讃歌する曲を、男はまるで子守唄を聞かせるように静かに呟く。
その曲は、その声は、自分を混沌の闇の中から救い出したものだった。








恵みあふれる聖マリア
主はあなたとともにおられます
主はあなたを選び祝福し
あなたの子イエスも祝福されました
神の母、聖マリア
罪深い私たちのために
今も、死を迎えるときも、
祈っていてください





Gloria in Excelsis Deo