走り続けた脚は震え、息はとうに切れていた。
は、は。浅い呼吸を幾度も繰り返しながら、骸は漸く森の中で歩を止めた。
土砂降りの雨は止むことを知らずに激しく地面を打っている。
不規則な呼吸も、足音も、すべて掻き消されることに少しだけ安堵して、骸はゆっくりと木に寄り掛った。
雨音が支配する鬱蒼と暗いこの森の中ならば、少しは復讐者の目を欺くことが出来るかも知れない。
それでもあいつらのことだ。子供騙しのようなことは長くは続かないだろう。
暗闇に慣れた目で辺りを警戒しながら、骸は大きく息を吸った。
疲労した身体とは対照的に、脳はスピードを上げて回り続けてはすべての逃げ道を、可能性を探っては逡巡する。
ただ一つはっきりしていることは、ここに長くはいられない、ということだった。
呼吸を整えたら、直ぐにでも走り出さなければ。
けれども巡る思考と対照的に、疲弊した脚はがくりと折れてひとりでに膝をついた。
ばしゃりと大きく泥が跳ねる。
濁った色はまた一つ、手に、服に、新たな染みを落としていった。
行かなくては。あいつらが、来る。
必死に己を叱咤して脚を立てようとし、けれども体は麻痺したように動かない。がくがくと震える脚は限界を振り切っていた。
泥濘の上に膝をついたまま、骸は押し負けた疲労にずるずると木に寄りかかった。
汚れた服は冷たい雨を含んで濡れ、肌に張り付いてゆっくりと確実に体温を奪っていく。
震える体をどうする事も出来ないまま、強い疲労だけが押し寄せてきていた。
まだ浅く不安定な呼吸を吐き出しながら、骸は思った。
犬、は。千種は、大丈夫だろうか。追っ手は皆自分に向かうようにして逆の方角へと行かせたけれど、無事に逃げきれたのだろうか。
二人で逃げているのなら、彼らはきっと心配ないだろう。犬はまだ体力を残しているだろうし、千種は冷静さを失わない。
けれど、もしも、ばらばらになっていたら。
最悪の状況が漠然と不安を生む。それでも真実を確かめる術を、
自分は持たない。
ゆっくりと眼差しを持ち上げて、骸は空を見上げた。
鬱蒼と茂る木々の間から見えるのは、薄暗い曇天だった。
濁った空から落とされる雨は頬を打ち、眼の中に流れては目の前を暈していく。
何故だかそこに浮かんだのは、彼だった。
強い人だった。
永遠に続く悪夢のような時間の中で、彼は決して屈しなかった。
出口のない牢獄に伏したまま、それでも矜持を手離すことなく、鋭い光を湛えた綺麗な眼で挑むように眼差しを上げて自分を睨みつけた。
桜の洪水と血の匂いの地獄の中で、彼は確かにそこに、立っていた。
彼、は。どうしているだろうか。
まだ、覚えているだろうか。たった数日間だけの現実から切り離された世界の出来事を、桜の嵐の中で床に叩きつけた自分を、今でも覚えているだろうか。

ゆっくりと閉じた眼の裏に、昨日のことのようにまざまざと、彼の眼差しが、言葉が蘇って、何故だか泣きたくなった。
黒曜石のような瞳を真っ直ぐにこちらに向けて、彼は迷いなく叫んでいた。
都合よく忘れてたまるか。僕は絶対に忘れない。僕が受けた屈辱を、全部。
いつか殺してやる。君だけは、僕が殺してやる。絶対に。
あまりに鮮明な光景だった。光を湛えた眼差しも、叫ぶように吐き出された声も、床に散った血の色も、降り注ぐ桜も。
あの日のものは何一つ褪せることなく、時を止めたように存在していた。
彼はそれを、覚えているだろうか。何一つ反撃すらさせずに、真っ白な肌に敗北を刻み込み、逃げるように去ってしまった自分を、まだ憎んでいるだろうか。
そうだろうと思うことは自惚れであることを知っている。そうあってほしいと願うことは身勝手な願望であることを知っている。
それでも、もし彼が何の戸惑いもなく自分を憎んでいてくれるのならば。
もし彼が何の躊躇いもなくあの日のあの時の自分を覚えていてくれるのならば。
そうして何の迷いもなく自分を殺そうとしてくれているのならば。
生きていく理由は、死んではならない理由は、それだけで十分だった。




雨音に濁った世界を乱すように、遠くから足音が聞こえてくる。
まだ戸惑いを持ってばらばらと不規則に響くそれが自分を見つけるまで、そう長いことかからないだろう。
まだ微かに震える脚で、骸はゆっくり立ち上がった。
逃げ切らなくてはいけない。やり残したことがある。まだこの世界を捨てることは出来ない。
いつか彼に、もう一度会うために。

冷たくなった手を握って、骸は降りしきる雨の中を駆け出した。





逃亡者