不器用なこども

                    Side-Mukuro








隣に身体を横たえる人が眠りに落ちるのに時間はかからなかった。
憔悴し切って怯え、青褪めた肌をしていた彼は、行為が終わるとそのまま目蓋を落として昏睡した。
そっと雲雀の髪を撫でても反応がないことを確認すると、骸はおもむろにベッドから起き上がった。
脱ぎ捨てたワイシャツを羽織って、一つ一つボタンを嵌めていく。
その指が冷静さを欠いているのを、掛けそびれたボタンでようやく知った。
彼が眠る寝室の扉をゆっくりと閉めると、感情に促されるままに、骸は部屋を出た。
長い廊下の先の部屋に、あの男がいる。
曖昧に影を落としていた疑念が霧が晴れるように確信へと変わったとき、男のすべての行動が繋がって脳裏を駆け抜けた。
一見屈託のない笑みを浮かべながら彼に話しかける仕草も、悪意のない振りをした瞳がいつもほんの一瞬だけ映す異色の感情も、彼の名を呼ぶときの密やかな躊躇いをはらんだ音も。
ぐ、と歯を噛み締めると、骸は歩を早めた。
このボンゴレの屋敷が最適な場所で、幹部が揃い踏みしている今夜が最適な時間であるとは到底思えなかったけれども、その不都合な事実は少しも骸の歩を妨げることをしなかった。
平静さを失っているのだと頭では理解したまま、感情は遥か先にあって体を支配している。
経験したことのない激昂が全身を駆け巡るのを感じながら、骸は扉に手を掛けた。


灯りが薄暗い部屋の中でも、闇に慣れ切っている双眸は瞬時に部屋の輪郭を捉えた。
足に絡まる絨毯を一歩一歩踏みしめながら、ソファの上に横たわる人影に近づくのにそう長くはかからなかった。
「こんばんは、山本くん」
不安定な眠りに浸かっていた山本が、その声に即座に起き上がるよりも一瞬早く、骸はその鳩尾を踏みつけた。
「ろ、くどう」
苦痛に目を見開いた山本が、寝起きのあやふやな声で名前を呼ぶ。
骸は唇を歪めて微笑を浮かべると、横たわる男に拳銃を突き付けた。
きっと彼は一度瞬きをする間にこの状況を理解してしまうだろうから、その前に頭上から音を叩き込むように言葉を続ける。
「お休みのところ、申し訳ありません。ですが、どうしても君とお話したいことがありまして」
彼はぱち、と一度だけ瞬いて、やっぱりすべてを理解したように三白眼を細めて笑みをつくった。
「いいの?隣の部屋に、聞こえる」
「構いませんよ、彼は僕の部屋で寝ていますから」
告げられた事実に別段驚く様子も見せずに、山本は表情を変えずにふうん、と呟いた。
圧倒的に不利な体勢に置かれているというのに、山本がその目に浮かべるのは余裕だった。
知らぬ人間からは、男の笑みは子供のようだと称されるであろう。
策略を持たず、人を欺くことを知らず、誠実な笑みだと皆が信じきっている。
莫迦げている。その脆弱な上面の下には男の狡猾さが透けて見えているというのに。
身体中を静かに滾る憎悪はそのまま、男の鳩尾に乗せた右足を重くさせた。
呼吸を圧迫する力に一瞬眉根を顰め、けれども山本はすぐに骸が嫌う笑みをまた浮かべる。
「なんの用だよ」
「お礼ですよ?」
嫌悪から生まれた笑みをにっこりと浮かべて、骸は拳銃を握り直した。
カチャ、という独特の重い金属音が部屋に響いて、ほんの少し空気だけが張り詰める。
「僕が留守の間に、彼が随分お世話になっていたようですから」
「世話ね」
山本は不自由な呼吸器官をほんの少し煩わしそうに、けれども乾いた笑いを唇から零した。
「俺は、ただあいつを受け入れただけ、だけど?」
形だけ穏やかに造り上げた自分の表情が固まるのが分かった。
鈍くくすんだ低い声も、小賢しく歪む唇も、欺瞞で塗り固められた肌も嫌いだった。
男の持つものすべてをずっと嫌ってきた。
けれどもあの人は、彼は自分が嫌悪してやまない男を求めたのだ。
自分では、なく。
流れる激昂がふつふつと熱く沸くのを感じながら目蓋の裏に浮かんだのは、あの夜の彼だった。
鎖骨の下に付けられた裏切りの印を手で隠しながら、なされるであろう詰問に彼は怯えていた。
静かに肩を震わせる彼を愕然と見つめながら、骸は眩暈のするような絶望がゆっくりと降りてくるのを感じた。
彼は、あの男を受容した。
その事実はどくどくと心臓を速まらせ、白く眩み始めた視界に喉は小さく喘いだ。
それでも、彼の犯した行為を咎めることなど出来なかった。
問い質してしまったときに、彼から返される答えが怖かった。
追い詰めてしまったときに、彼が話し始める真実がひどく怖ろしかった。
だから必死に絶望を皮膚の下に押し殺して、苦痛に歪む唇を、無理矢理に微笑に模った。


どうして。どうして、僕ではなく、あの男を。
その答えを依然知らないままで、けれども事実だけが流れる激昂をふつふつと熱く沸かせ、同時に内側から凍らせる。
「一つ言っておきましょうか、山本武」
名前を呼ばれた男は、相も変わらず笑みを唇の端に浮かべて、余裕ぶった目でこちらを見上げた。
「僕ね、大嫌いなんですよ。自分のものに触れられるのも、それに印をつけられるのも」
「何が言いたい?」
「彼は、僕のものだ」
眼前にまで拳銃を突き付けて嫌い続けた男と対峙すると、言葉は堰を切ったように溢れ出した。
「もう一度言いましょうか。君がその手で拘束した人は、僕のものだ。君がその唇で痣をつけた人は、僕のものだ。君が無垢な素振りで、その穢れた肌で奪った人は、君のものじゃない、僕の、僕のものだ」
すべての感情が制御を失い、舌を滑り落ちて零れ落ちてくる。
憎悪も渇望も嫉妬も絶望も、男に向かう感情も彼へ向かう感情も、無差別に。
「僕のものだ。あの人は、僕のものだ。君のものじゃない、君のものなんかじゃない。あの人は、僕のものだ!」
唐突に浴びせられた激昂に、男の目がゆっくりと驚きの色を浮かべてこちらを見つめたけれども、骸はその瞳を睨み返した。
「君になんて触れさせはしない。君になんて汚させはしない。どんなに君が希っても、絶対に君になんて渡しはしない。僕は君を許さない。もし君が同じことを繰り返すのなら、そのときは僕が、君を殺す。たとえ彼が止めようとも、僕が、絶対に、君を殺す。彼は、君のものじゃない。僕のものだ。僕のものだ!二度と彼に触れるな、二度と彼を汚すな、二度と彼に近寄るな!君に彼が守れるわけなんてない。君になんて守れるわけがない!だから彼は、僕が」
「ろくどう」
耳に飛び込んできた声があまりに静かだったから、言葉は音にはなれなかった。
視線を落とした山本の表情からは、笑みが消えていた。
激情に煽られた自身の表情といっそ可笑しなほど対照的に、男は表情を失っていた。
感情のないまっさらな空白だけを映す男を、骸は拳銃を握り締めたまま、呆然として見つめた。
一度だけ大きく両目を瞬かせた男は、自分に向けられる凶器をまったく見過ごして、骸に目を向けていた。
盾を失ってしまった瞳はひどく無防備だった。十年前の少年の面影を、髣髴とさせるほどに。
それでも山本は臆することなく大きくその目を瞠って、ゆっくりと右手を持ち上げた。
その手の意図に骸が気づいて手を引くよりも寸分早く、男は自身に向く冷たい銃口を、そっと握り込んだ。
「六道、お前」
「触るなっ…!」
振り払おうとした左手は、けれども一言のうちに硬直した。
「ほんとに、あいつが、好きだったんだな」
その一言は、世界を揺らがすのに十分だった。
「なに、を」
形だけの問いかけを紡いで、骸は言葉を失った。
その先に続く言葉を知らない舌は絡まって、愚かしく縺れていく。
耳を塞ぐ暇もなく飛び込んできた音が喉を塞いで、締め付けられる喉の息苦しさに骸は喘いだ。
男の紡いだ言葉の意味を受け止めることが出来ずに脳は淡く混乱し、鉛の重さを持ち始めた舌は重く沈んで、同時に舌の上に毒が苦く広がった。
拳銃に掛かる指がじわじわと浸食され、力を失っていく。
冷たい金属の感覚が遠のいていくのが、混濁の中でも分かった。


けれどもその指を解いたのは、骸ではなく、山本だった。
銃口に掛けられていた彼の指は支える力を唐突に失って、スローモーションの中で崩れ落ちた。
は、と呼吸を切らしながら、骸はおそるおそるその目を山本に落として、息を止めた。
真っ直ぐにこちらを向く瞳には、涙が溜まっていた。
驚きに瞬くよりも早く、それはみるみるうちにぼろ、と大きな音を立てて零れ落ちる。
水は透明な線になって山本の頬を伝い、重力に抗うことを知らずに落ちるままにぱたぱたとソファを叩いた。
小さな音が沈黙に僅かな皹を入れて、山本は喘ぐように言葉を紡いだ。
「お前ら、は」
子供のように顔を歪ませてぼろぼろと涙を零しながら、山本は骸を見上げた。
据えられた睥睨の視線に骸は一瞬怯んで、けれども目を逸らすことは出来なかった。
「お前らは、莫迦だ」
嗚咽に声を詰まらせながら、山本は目を覆い隠すようにゆっくりと腕を乗せた。
涙を堰き止める手立てを知らないその手はあまりに非力で、温い水は腕を伝ってはぱたぱたと零れ落ち続ける。
喉を上下させ咽るようにしゃくり上げながら、男は切れ切れに単語を繋いだ。
「莫迦だ。莫迦だよ。お前も、ヒバリも、莫迦だ。こんな単純なことに、気がつかないなんて」
突き立てられた言葉は次々に体の中に入ってくるけれども、その意味ははっきりと輪郭を持つことなく、曖昧に暈けていて掴むことが出来ない。
腕の中の言葉は砂のように次々と零れ落ちては、繋げられる男の言葉にまた満たされた。
「口にしても、いいのかもしれないって、ほんの少しだけ、思ったのに。手を伸ばしたら、届くのかもしれないって、ほんの少しだけ、思ったのに。届くわけ、ないだろ。勝負なんて、始まってすら、いないのに」
意思とは関係なく詰まる喉に咽ながら、山本は震える唇を歪めて吐き出すように続けた。
「期待なんて、させるな。こんな、茶番なんて、酷過ぎる」
言葉を切ってしまうよりも早く、山本の口からは堰を切ったように嗚咽が溢れ出した。
声を上げて泣きじゃくる山本を、骸は茫然と見つめていた。
茶番、だなんて。その台詞は、僕のものであるはずなのに。
暗い憧憬を目の内に飼い殺しながら、静かに彼を見つめ続けていたくせに。
機会さえも計算し尽して、崩れ落ちた彼に卑怯な手を差し伸べたくせに。
この腕の中からゆっくりと彼が離れていくのを、笑みを浮かべながら見ていたくせに。
総ては君の手の中での出来事だったというのに。
なのに、どうして。
繋ごうとした言葉は声を失った喉に阻まれて、音になることはなかった。
対象を失った拳銃が手の中で重さを増すのを感じて、骸は途方に暮れた。


水の音は、止まない。